一瞬のカタルシスではなく

昨日書いた内容を読み返すと赤面ものですね

2ちゃんねるなら「ここはおまえの日記帳じゃねえ。チラシの裏にでも書い

ておけ」と突っ込まれそうです

日記帳と銘をうってありますので、2009年4月某日の自分の頭に浮かん

だ内容はかくのごとくものであった、という記録ですからまあいいでしょう

(開き直りです)

さて、もう一度頭の中を整理してみます

フロイトは「悲哀とメランコリー」の中で親しい人間を亡くした直後の抑うつ

状態から抜け出るためのプロセスを「喪の作業」と呼びました

メラニー・クラインはフロイトの概念をさらに推し進め、死者(失われる対象)

を「よい対象」と「悪い対象」と分け、愛惜の念の中には死者に名残り惜し

さと攻撃し破壊したい衝動が混在すると指摘したところが重要です

クラインの著作集第三巻に収められている「喪とその躁うつ状態の関係」で

は、「喪の作業」は人が成長して親しい人物の死に遭遇して初めて体験す

るものではなく、幼少時の体験(良い対象である乳房から引き離される体験

を通じて芽生える乳房への希求や愛着の念と、これを引き離す母親への攻

撃衝動や憎悪)が上書きされるものだと説明していると自分は解釈します

つまり死者を弔う気持ちと、死者に対する未達の憎悪や攻撃衝動というア

ンビバレンツ(両価的)な感情が渦巻いているのだ、と

テレビ番組ではスピリチュアルカウンセリングというのをやっています。死者

を代弁し死者の語りによってカタルシスを与える方法です

一見、精神分析にも似ていますが、大きな違いがあります

フロイトは繰り返し現実原則を強調しており、被分析者を現実の生活へ引き

戻すのが精神分析の役割だと考えていました

ラカンは「人はみな夢遊病のようなもので、これを目覚めさせるのが分析家

の役割だ」と述べています

つまり、死者や失われたものに対する未達の思いが一つ一つ現実原則に

よって検討されるべきだとする考えです。死んだ人は戻らない、破壊された

ものは戻らないという現実の前に人は立たなければならない

愛着や未練、感傷に浸るのが「喪の作業」ではなく、現実原則に従って未

達の思いを検討し、「だから取り戻せないのはしょうがない」と納得すること

で失われたものへの執着が解かれ、リビドーは解放され本来の生に向かう

意志・エネルギーとしての機能が回復すると

そうして人は現実の生活へと復帰するのだ、と

スピリチュアルカウンセリングによって一瞬のカタルシスを得たとしても、そ

れは「喪の作業」を完遂したとは言えないのです。それはおそらく感傷に浸

り、感傷に酔う段階で留まってしまうのではないでしょうか

クラインは「失われた対象」に対する敵意や憎悪、攻撃衝動など一つ一つ

を拾い上げ、解消しなければ「喪の作業」は終わらないと考えたのです

(これもかなり強引な解釈ですが)