長崎男児殺害事件を考える5 余談

たびたび言及しますが、少年事件を追いかけているジャーナリスト吉岡忍もこの長崎男児殺害事件を取材し、あちこちで記事を書いています
「市民の意見30の会・東京ニュース」に掲載された吉岡忍の「『楽観』を対置したい」には以下のような記述があります

この夏、長崎市の中一少年が四歳の男の子をさらい、駐車場の屋上から落として殺す事件が起きた。九〇年代から頻発する青少年事件を調べてきた目には、この事件もまた、少年が社会に自分をつなぎ、居場所を作ろうとした際につまずき、攻撃性が突出した出来事に見える。
ここには、どうしてこうも簡単に攻撃性が過剰になるのかという問題と、自己と社会との接続がなぜこんなにもむずかしくなったのかという問題の両方がある。
これらの問題を考えるためには、過去十数年のあいだに、よかれ悪しかれ戦後日本を駆動してきた地域社会と企業社会の両方が消滅したこと、子供も大人もじかに社会と世界に向き合い、その荒波を受け止めなければならなくなったこと、そのことが個々人の感受性と思考や行為に乱調を引き起こしていることなどに着目する必要がある。
その上で、こうした変化がなぜ一人ひとりの少年や大人に激しい攻撃性として発現するのか、その機制をていねいに見ていかなければならない。内部を見るとはそういうことである。


まず、吉岡の「地域社会と企業社会の両方が消滅した」という認識が疑問です。その支配力(吉岡ら新左翼系の人間が好んで使う表現を借りれば)は衰えたといえ、まだ完全に消滅したと断定するのは早計でしょう
それに地域社会や企業の影響力の減退が本件とどう結びついていると吉岡が考えているのか、謎です
本件は中学一年生の少年によって引き起こされた事件です。12歳のこどもがどれだけ社会との接点をもっていたのでしょうか?
彼個人が地域社会や企業社会と抜き差しならぬ関係に縛られていたとは言えませんし、逆に関係が希薄だったとしてもそれは特別な出来事ではありません。日本全国の中学生がそうなのですから
ですから12歳の少年がどのような社会の荒波にさらされていたと吉岡が考えるのか、さっぱり理解できません
前にも述べましたが、本件は少年個人の内面に生じたサディズムとマゾヒズムの入り混じった幻想に起因するものと自分は考えます


ですから彼の内面に深く関わる術がなかった地域社会や学校が責任を感じるべきではないのです
自立の問題はあくまでも個人の問題です。(もちろん、周囲が何らかの形で自立に失敗した青少年を支援することが出来れば理想ですが、本件のように中学一年生に自立の成否を問うのは困難です)
「サインを見逃すな」と言われますが、どれだけ優秀な教師でも異変や予兆を感じ取れるとは限りません
悩みを抱え、何らかの挫折を経験しながらも非行など起こさない少年少女が圧倒的に多いのですから
結局、吉岡は「内部を見る」必要性を強調しながら、少年と社会のかかわりといった外部要因しか考えないのです
さらに、「どうしてこうも簡単に攻撃性が過剰になるのかという問題」を吉岡は嘆いてみせるのですが、90年代の少年事件だけの特徴ではありません
安保闘争、学園紛争いらい左翼の青少年が発揮してきたすさまじい暴力について、なぜ吉岡は触れないのでしょうか?
鉄パイプを振り回し、対立する政治勢力のメンバーの頭を滅多打ちにして殺す手口が、彼ら新左翼の「過剰な攻撃性」を表現しているわけで
吉岡が宮崎勤事件について書いた著作もそうなのですが、事件を追いかけながら、事件とはまるで無関係な社会事象をひたすら語っている姿はとても奇妙なものです

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