佐々木小次郎慰霊祭 巌流島の決闘は創作だとする意見

宮本武蔵といえば、佐々木小次郎との巌流島での決闘が思い浮かびます
4月13日が佐々木小次郎の命日とされ、巌流島では毎年慰霊祭が行われているそうです

慰霊祭:小次郎しのび 剣舞や祭事、100人参列

大河ドラマなどで描かれる宮本武蔵も、井上雄彦のマンガ「バガボンド」も、吉川英治の小説「宮本武蔵」を原作にしており、そこでは佐々木小次郎との対決が山場として描かれています
しかし、この佐々木小次郎という剣豪が実在した人物である証拠は不明確であり、巌流島の決闘そのものが本当に行われたのか定かではありません
熊本藩の豊田景英が宮本武蔵の活躍を綴った「二天記」を1776年に編纂しており、その中に佐々木小次郎が登場します
越前の生まれで、そこの一乗谷で「秘剣つばめ返し」を編み出したとの説も「二天記」に書かれています。これが吉川英治の小説「宮本武蔵」の種本になったのでしょう
しかし、「二天記」は小次郎の死後、60年以上経ってから編纂されており、その間に武蔵の武勇伝にあれこれと尾ひれがつき、装飾が施されたのではないかと考えらます
一連の武蔵の武勇伝には真偽不明なエピソードが数多くあり、それが「二天記」をはじめとする江戸時代に書かれた宮本武蔵伝承へ疑いを生んでいるのです
以前にも書きましたが、宮本武蔵が室町将軍家剣術指南役吉岡一門と死闘を繰り広げた話も真偽は不明です。吉岡家の家系図に吉岡清十郎、吉岡伝七郎という人物が存在していおらず、吉岡家が剣術道場を閉鎖したのも武蔵に敗れたためではなく、もっと後の時代になってからです
このように武蔵の武者修行時代のエピソードは、史実として確認されるものが少ないため、佐々木小次郎の存在も怪しくなってくるのです
宮本武蔵の養子で小倉藩家老となった伊織が、養父武蔵の功績を称える石碑を建立しており、その碑文に吉岡道場との対決や巌流島の対決が記されています。しかし、伊織は武蔵と常に行動を共にしていたわけでもなく、それらの対決を直接目撃したわけでもありません(小倉の石碑は武蔵が亡くなってから9年後、1654年に建立された)
武蔵本人か、あるいは他の弟子から聞いた話を碑文にしたのでしょう
佐々木小次郎がもし高名な武芸者だったのであれば、彼に関する記録が多く残っていなければならないのですが、実際は武蔵との関係で名前が語られるだけであり、姓が佐々木であるのかさえ、はっきりしません
碑文には、「爰に兵術の達人、岩流と名のる有り。彼と雌雄を決せんことを求む。岩流云く、真剣を以て雌雄を決せんことを請ふ。武蔵対へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ。吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。長門と豊前との際、海中に嶋有り。舟嶋と謂ふ。両雄、同時に相会す。岩流、三尺の白刃を手にして来たり、命を顧みずして術を尽くす。武蔵、木刃の一撃を以て之を殺す。電光も猶遅し。故に俗、舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ」と刻まれており、佐々木とも小次郎とも書いてありません
滋賀県から福井県にかけてはその昔、佐々木源氏の領地であったことから、小次郎の姓が佐々木ならば近江か越前の生まれであろう、との憶測が結びついたのでしょう
また、鐘捲自斎の弟子だとする説にも明白な証拠はありません
吉川英治は鐘捲自斎が佐々木小次郎に当てたとされる印可状(免許皆伝の証)を所持していたそうですが、それは後世に作られた偽物でした
このように、剣豪佐々木小次郎については分からないことだらけというのが実際で、本当に存在した人物なのか、創作された人物なのかはっきりしないのです
もちろん佐々木小次郎が、長身で美男子であったという証拠もなく、容姿に関しては後世の創作でしょう
歴史上これほど有名な人物なのに、その人物像を裏付ける証拠がないというのは珍しい話です。江戸時代には講談などで武蔵の武勇伝が広く知られるようになっていますから、佐々木小次郎絡みの史跡は武勇伝を受けて後世になってこじつけられたものがほとんどです(佐々木小次郎が使った井戸、とか)
吉川英治の小説「宮本武蔵」は傑作ですが、そろそろ小説から離れて、史実を突き詰めたところから宮本武蔵や佐々木小次郎について語られる時期だろうと思います
あるいはドラマや映画で描くにしても、吉川英治版から離れた、新たな人物像を模索してもらいたいと期待します

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