エヴァンゲリオン 14歳のカルテ(2)

前回に続き、2011年の「追手門学院大学 地域支援心理研究センター紀要 第8号」に掲載された溝部宏二教授の論文「新世紀エヴァンゲリオンにみる思春期課題と精神障害~14歳のカルテ~」を取り上げます
後半は思春期とA.T.フィールドについての考察になっていますので、引用しつつあれこれ思うところを述べます


新世紀エヴァンゲリオンにみる思春期課題と精神障害~14歳のカルテ~
(前略)
6.思春期の自我境界と精神障害
(A.T.フィールドと精神病)
以上の説明を踏まえて、A.T.フィールドの強弱と精神病発症について考えてみる。
A.T.フィールドは前述の様に「(外的)自我境界」を意味するものであろう。ここでは精神分析理論に基づいた自我境界論を示す。
フェダーンは、自我(心のコントロールセンター)と外界との間に外的自我境界、また自我とエス(欲求・無意識)との間に内的自我境界を考えた(図3 A.)。つまり自我境界とは主観的に自己と感じられるものと感じられないものの境目である。西園はグッティルの考えを参考にしながら、外界やエス(欲求)に対する自我の構造を以下のように考えた10)。
ヒステリー(図3 B.)では、外的自我境界(A.T.フィールド)が脆弱で外的刺激の影響を受けやすく、被暗示性に富む。自我の同一性を守るために内的自我境界を強化して、本能的欲求を抑圧する。逆に強迫性障害(図3 C.)では、無意識的欲求が自我に侵入してくるため、自我の崩壊を防ぐには外的自我境界(A.T.フィールド)を強化せざるを得ない。そのため、同一性保持目的で自分なりの規則へのこだわりが出現する。ヒステリーが内的自我境界を、強迫性障害が外的自我境界を強化して自我同一性を確保しようと試みている。アスカは、強迫的心性を持ち、無意識に存在するファンタジーの母親に強く影響されているが、無意識に圧倒された自我は強固なA.T.フィールドにより外へも漏れ出せず自閉するしかなかったのだが、エヴァの中(アスカの外部)に存在する母親とアスカの自我は出会いファンタジーを克服する。内的自我境界が強化され、同時にA.T.フィールドが外部との窓口でもある意味を知ることとなる(覚醒)。さらに前田は、統合失調症(図3 D.)の場合には、内外の自我境界ともに上記疾患より希薄な状態(綻びが大きい)で、無意識的内容が自我に容易に侵入し、外的現実と自己との差異が曖昧で影響を受けやすく漏洩もしやすいと考えた11)。
統合失調症は自我そのものの喪失である。
A.T.フィールドを失った状態は、「自分も他人もない、とても脆弱な世界」であり、人類は孤独であるという現実を補完した姿なのであろう。
ゼーレの補完では、自我境界は消失し、区別が存在する以前の魂の状態(魂の集まる場所=ガフの部屋)に戻ること、つまり一度「死ぬ」のが目的であり、ゲンドウの補完ではその外に強固な外的自我境界を構成し、全ての魂が融合した単体で完璧な生命体(永遠の生命を持つ使徒+知恵のある人類=神)へ進化するのを目的とする。しかし、統合失調症では他者はA.T.フィールドを持ちながら、患者のみがA.T.フィールドを失っ
た状態であるのでとても自分だけが無防備で、脆弱な状態であると言えよう。
(中略:ショーペンハウアーのヤマアラシののジレンマの説明)
強すぎるA.T.フィールド(自我境界)は、他者から自分を守ると同時に他者を傷つける可能性を持つものであり、弱すぎるA.T.フィールドは、自他の境目が曖昧になり「自分」がなくなるのである。そこで、人間はA.T.フィールドを展開したり中和したりしながら、対人コミュニケーションを行い、健康な自我機能を維持するのである。この中和や展開が上手くいかない場合に人は人によって傷つくのである。適切なA.T.フィールドの中和と展開を覚えることである「自分(自我同一性)」を獲得するのが思春期の課題であり、エヴァンゲリオンのテーマの一つであろう。


長々と引用していますが、重要なのは文末の強すぎるA.T.フィールドと弱すぎるA.T.フィールドの対比です。そして「適切なA.T.フィールドの中和と展開を覚えることである『自分(自我同一性)』を獲得するのが思春期の課題」という結論はいかにも精神科のドクターらしいといえます
ただ、その「適切」という基準をどこに置くかが難しいのであり、誰もが悩み、失敗し、苦しむわけですが
さて、このA.T.フィールドこそ、「エヴァ」の物語で最大の発明だろうと自分は思います。漫画やアニメには敵の攻撃から身を守る「バリア」という手段・武器が使われてきました。「バリア」は漫画やアニメの中で科学兵器という設定だったり、超能力と説明されたりするのですが、個人の心境やら精神状態とリンクされて使えたり、使えなかったりするといった仕組みではありません(大雑把な括りです)
しかし、「エヴァ」におけるA.T.フィールドの場合、展開できるか否か、搭乗者の精神状態次第です
「エヴァ」が「物理的障壁としてのバリア」ではなく、自我を保護する装置としてA.T.フィールドを着想したのは秀逸でしょう。加えてエヴァの機体を取り囲む装甲板を、「エヴァの暴走を抑えるための拘束具」であると設定したのも秀逸であり、従来の「巨大ロボットと鉄壁の装甲」という概念をひっくり返し視聴者を驚かせました
装甲板を拘束具だと表現するところから、視聴者はA.T.フィールドなるものが従来のアニメに登場する「バリア」のような物理的障壁ではない何か、だと理解し、だからこそA.T.フィールドとは何か、をあれこれ想像し検討するよう仕向けられるわけです
疑問
ただし、上記の引用部分でアスカとA.T.フィールドの関係が自分には理解できません
アスカは、強迫的心性を持ち、無意識に存在するファンタジーの母親に強く影響されているが、無意識に圧倒された自我は強固なA.T.フィールドにより外へも漏れ出せず自閉するしかなかったのだが、エヴァの中(アスカの外部)に存在する母親とアスカの自我は出会いファンタジーを克服する。内的自我境界が強化され、同時にA.T.フィールドが外部との窓口でもある意味を知ることとなる(覚醒)。
有名なアスカの覚醒シーンです。湖底に沈んだエヴァの中で「死ぬのは嫌」と繰り返すアスカが、母親の存在を己の一部として認め受け入れることで圧倒的なA.T.フィールドを展開し、暴れまくって量産型のエヴァシリーズを叩く場面です
このアスカの覚醒をファンタジーの克服であると指摘しているのですが、理解できません。母親の存在を自我を形成する要素の一部として受け入れたとして、それがファンタジーの克服(覚醒)なのでしょうか(同じことを繰り返し書いているわけですが)
自分にはアスカの錯覚(母親と己の関係を間違った解釈をし)であり、その思い違いによって迷いを払拭し、仮の内的自我境界が強化され、火事場のバカ力というべきA.T.フィールド全開に達したと思えるのですが
この辺りはさらに検討が必要なのでしょう

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