「ノルウェイの森」をセカイ系だと批評する東浩紀

少し古くなりましたが、2016年9月から10月にかけて、評論家東浩紀がツイッターに書き込んだ、村上春樹の「ノルウェイの森」と新海誠の「君の名は。」をセカイ系の作品として語ろうとする試みについて取り上げます
これも一連のセカイ系と呼ばれるアニメーション作品について考えるシリーズの一環です
東浩紀のツイッターから、関係する部分をコピペして繋げたものを以下、貼り付けておきます


新海誠「君の名は。」については、昨晩の突発生放送(タイムシフトなし)で言いたいことを言ったので、詳しく書くのはやめました。新海さんの集大成で最高傑作だと思います。ぼくは文句ありません。しかしセカイ系の集大成なので見るひとは選ぶでしょう。それに尽きるかと思います。
セカイ系と美少女ゲームの想像力がリア充キャラを主人公に据えることで奇妙にも国民的評価を得てしまった、という渡邉くんの分析はまったくそのとおり。ただぼくは、この「あと」になにが来るかという点では楽観的ではない。君の名は。は、一つの時代の始まりというより終わりを告げる作品に見えた。
シン・ゴジラと君の名は。を見て思ったのは、ひとことで言えば、オタクの時代は終わったんだなということですね。第一世代のガイナックス系オタクと第二世代のセカイ系オタクの想像力が、同時に社会派になりリア充化し、オタク特有のぐずぐずしたどうしようもない部分がすっぱり消えた。
新海誠の「君の名は。」は村上春樹の「ノルウェイの森」に相当するのだと考えると、物語内容、社会現象含め、さまざまなことが理解できるのだということに思い至った。
ひと月ほど考え続けた結果、ぼくは、「君の名は。」はたいへんな傑作であり、ぼくがいままで擁護してきた価値観を見事に体現した作品でもあるが、いまのぼくとしては絶対肯定できない作品だという結論に達した。言い換えれば、この作品に行き着いたセカイ系の想像力を肯定できないという結論に達した。
連動して呟けば、ぼくはいままで村上春樹を高く評価してきたし、それ自体はまちがいでもないと思うが、かつて1990年代、「ノルウェイの森」の後の春樹をなぜ柄谷行人ら『批評空間』派が批判しなければならなかったのか、その理由がようやく理解できた気がした。あれはぼくらから何かを奪うのだ。
チェルノブイリツアーが始まったら、もうつぶやけないので、短くだけつぶやいておく。ぼくは、もう批評家としてセカイ系は擁護できない。「君の名は。」を見て、そう思ったのだ。
村上春樹と新海誠がぼくらになにを与え、かわりになにを奪ったのかは、これから言葉にするように努力する。たぶんぼくは、それを言葉にしないと、前に進めないだろう。
村上春樹と新海誠が奪ったもの/奪おうとしているものを、文学と批評は取り返さなくてはならない。そうでないと文学者と批評家の存在価値はなくなる。否、むしろもうなくなっている。ぼくたちは少し真剣にならなくてはならない。
セカイ系の問題は、村上春樹の問題であり、政治と文学の分離の問題であり、つまりは「アメリカの影」の問題なのだということをしっかり認識しなと、「セカイ系は平安時代からあった」とか「現代SFはだいたいセカイ系だ」とかになって批評には使えない。ここ大事です。


もちろん、これだけでは東浩紀がどのような考察を展開し、いかなる結論にたどり着いたのかは不明です。東浩紀の編集になる冊子「ゲンロン4号」を読めば何かわかるのかもしれませんが、現時点で未読です
以下、自分の思い至る内容を語るので関心のない方は読み飛ばしていただいて構いません
人は誰しも大切な思い出を抱いているのでしょう。思い出はすでに失われてしまった事象の残滓です。今現在が充実し、楽しい日々を過ごしているのであれば、過去を追憶し思い出に浸ったりはしません
「ノルウェイの森」は直子という恋人を喪失する物語なのですが、直子は主人公が高校を卒業し東京の大学へ進学する時点で(あるいはそれよりも前から)壊れ始めており、言わば失われつつある存在でしょう。時系列として主人公は生きて前へ進み、さまざまな人と出会いを重ねていくものの、直子を失う痛みを引きずったままです。それは大切な思い出であれ、楽しくとか懐かしいというものではなく、どこまでも生々しく痛みを伴うものであり続けます
その痛み、あるいは喪失感を例えるなら、飛躍はありますが谷川流の小説「涼宮ハルヒの憂鬱」にある「ハルヒの消失」に匹敵すると言えます
ハルヒに振り回される日常にどっぷりと浸っていたキョンにとって、ハルヒのいない生活がいかに異常で、理不尽で、耐え難いものであるか
狂わんばかりにハルヒの存在を求め、キョンは足掻き続けます。そこから先、ハルヒを見出す展開は「ノルウェイの森」と異なりますので比較することに意味はありません
大雑把に言うなら、「ノルウェイの森」は再びハルヒに出会えなかったキョンの物語と表現できます。ハルヒの機嫌によって世界が崩壊の危機に瀕することもなく、平和で穏やかな日々でしょう。しかし、キョンはハルヒを捜し求めるのを止められず、倒れるまで捜し続けるはずです。それはそれで「ノルウェイの森」とは別の物語になるのでしょう
ハルヒの存在は世界改変や世界消失の危機と一体である、ハルヒが存在する限りキョンは世界の終わりから逃れられない前提にいます。それでもキョンはハルヒの存在する世界に帰還したいと願い、足掻きます。逆に「ノルウェイの森」において、直子の存在する世界は幽界や冥界のような場所であり、生者としての主人公がそこへ行くのなら自死しかありません。が、主人公は自殺する選択はないのです。当然、直子とは別の世界で生きるわけです
東浩紀が言う「村上春樹と新海誠が奪ったもの/奪おうとしているものを、文学と批評は取り返さなくてはならない」とはいったい何を示すものか、自分にはわかりません。強いて言い換えるなら、「直子はなぜ失われなければならなかったか」ということでしょうか?
どうも違う気がします
新海誠の「君の名は。」や「ノルウェイの森」が東浩紀から何を奪い、奪おうとしているのか、もう少し考えてみようと思います

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