セカイ系 「天気の子」からサリンジャー

セカイ系を考えるシリーズを断続的に書いています。ただ、何らかの結論に辿り着こうという目的意識はなく、セカイ系についてあれやこれや考えようという趣旨でやっています
今回は河野真太郎専修大学教授の書いた論考をベースにします
河野教授は「セカイ系の2つの問題」と、とっかかりを最初から絞って提起しており、これはとても掴みやすいと言えます


『天気の子』主人公が「村上春樹訳のサリンジャー」を読んでいる理由
セカイ系の二つの問題
セカイ系には二つの問題がある。ひとつは東による定義の通り、社会的なものへの想像力を欠いていることだ。「きみとぼく」関係は、この世そのものの浮沈と直結される。それは社会的・集団的な解決をもたない。逆に、「きみとぼく」関係の苦しみそのものも、あくまで個人化され、そこに社会的な原因と解決が見いだされることはない。
「社会は存在しない」という想像力のあり方を宣言したのは、1979年から1990年までイギリスの首相をつとめた、マーガレット・サッチャーであった。曰く、「社会なんて存在しません。存在するのは個々の男と女、そして家族だけです」。サッチャーのこの有名な言葉は、いわば「新自由主義宣言」と考えられている。社会や国家といった中間的な存在が、市場の荒波から個人を守ることはない。個人は最大化された市場の自由競争の中でサバイブしていなかければならない。
セカイ系はそのような感性の果てにある。セカイ系は新自由主義的なのだ。
もうひとつの問題は、東の定義には表現されていないものだ。ここではそれを「ミソジニー」(女性嫌悪)と名づけよう。ただし、それは単に女性が嫌いということではない。実際、セカイ系は「きみ」を好きで仕方がない「ぼく」の物語だ。
だが、今の表現がすでにミソジニーの構造を物語っている。セカイ系は、「きみとぼく」の対等で相互的な欲望の物語ではない。「ぼく」の視点の中でファンタジー化された「きみ」の物語なのである。男性の視線の中で都合良く作りあげられた女性像からは、それ以外の女性(というのは現実の女性のほとんど)が排除される。この排除の構造をミソジニーと呼んでいるのである。
より具体的には、セカイ系の典型は、残酷な戦いに参加することを強いられる戦闘美少女に対して、それを無力に見守る少年、という構図である。『ほしのこえ』はやはり典型だ。戦闘美少女は「美化」されているわけではない。男性的な視点の中で、多くの場合は傷つく身体としてフェティッシュ化され(『新世紀エヴァンゲリオン』の包帯姿の綾波レイ)、欲望の対象として構成されているのだ。
新自由主義(社会の不在)とミソジニー(女性の理想化と排除)、これがセカイ系の二大問題であるとして、セカイ系の代表選手とされた新海監督の新作が、その二つの限界をどれくらい超えているか。これが『天気の子』を観るにあたっての基本的な視点となるだろう。
(以下、略)


以下、省略した部分では「天気の子」に対する河野教授の批判的な考察が展開されるのですが、そこは割愛します。河野教授は「天気の子」が「君の名は。」よりも後退し、セカイ系の枠組みの中に安住しているのが気に入らないようです
「天気の子」がセカイ系のフォーマットを忠実に踏襲しているか、否かは自分にとってはどうでもよいのであり、興味の対象外です。ただし、新海監督はこの作品で150億円を超える興行収入を叩き出しているのですから、大したものです。観客の大半は小難しい理屈を並べて不満を訴えたりせず、映画を堪能できたのでしょう
「天気の子」のキャッチコピーは「これは、僕と彼女だけが知っている、世界の秘密についての物語」であり、セカイ系そのままです
なので、新海監督はセカイ系の枠から踏み出して、誰も見たことにない物語を描く気はなく、予定調和的なボーイ・ミーツ・ガールの物語を描くことを目指した、と言えます
それこそ物語を破綻なくまとめ、落とし込む秘訣でしょう
もちろん、物語が破綻しないのはヒロイン天野陽菜があくまでも監督の理想たるヒロイン像(男性の視線の中で都合良く作りあげられた女性像)だからです。つまり新海監督の巧妙にもミソロジーの産物である男性視線の中で都合よく作り上げられたヒロインを、違和感のない物語の主役へと昇華させてしまった、と言い換えられます。ここがクリエイターの腕、です
上記の論考の後段で河野教授は、主人公帆高と「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のホールデン・コールフィールドを重ね、論じているのですが、正直自分にはこの2人が重なりません
むしろ、ホールデン・コールフィールドは村上春樹の小説の登場人物風のひねた少年であり、ボーイ・ミーツ・ガールでハッピーエンド(手放しで大団円とは言えないものの)を迎える新海作品の登場人物のような少年とは異質である気がします
その異質な感じは河野教授が「ホールデンによる社会の激烈な否定は、その裏側に、だれも落伍者とはならないような社会へのユートピア的な希求があった」と書いている部分にも感じます。自分としてはホールデンのそれは、「落伍者となって落ちてしまうこどもの存在を意識しつつも、手を差し伸べられない自身への絶望と諦観」ではないかと思えるからです
帆高は物語の中で天野陽菜と出会い、彼女を捕まえ、2人のセカイを手に入れる一方、ホールデンはあくまでも孤独であり、社会と対立し続ける立場にあるのだ、と。もちろん、村上春樹風に表現すれば、物語の始まりよりホールデンはほんの少しだけ、息苦しさから解放され幸せになっていると言えるのでしょう
与えられた条件、あるいは不条理な宿命の中で生きながらも帆高はセカイ系という枠の中である種のカタルシスを得て、物語を完結させられるのに対し、ホールデンは違うのだと
ゆえにホールデンは未完の物語を紡ぐ人物として、読者の中に存在し続けるのではないか(つまり「「キャッチャー・イン・ザ・ライ」はセカイ系の小説ではない)と自分は思うのです

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