「千と千尋の神隠し」を考える こどもの居場所

このところ宮崎駿の漫画版「風の谷のナウシカ」について、断続的に取り上げてきました。実はスタジオジブリの作品で、あれこれ論じたくなるような作品は多くありません。既に述べたように「ハウルの動く城」も「もののけ姫」も、物語としては破綻しており、失敗作に近い印象があるからです
だからと「ハウルの動く城」を批判する気にもなれないのであり、言及せずにそっとしておくのが最善の選択であると思います
赤坂憲雄の「ナウシカ考」(岩波書店)について言及するのはもう少し先にして、今回は「千と千尋の神隠し」を取り上げることにします
「ハウル」や「もののけ姫」ほど破綻はしていないものの、作品の完成度としては微妙なところがある作品です。これはスタジオジブリの絶対的な権力者、宮崎駿の穴だらけの脚本に誰も意見を言えないがため、物語の辻褄が合わないと皆が思いつつ、作品を世に送り出さざるを得なかったからなのでしょう
自分は最初に視聴したとき、湯婆婆に姉妹がいるという唐突な設定が理解できませんでしたし、ハクが川の神様で以前に千尋と出会っていたとかご都合主義的な展開にうんざいりしたものです
ただ、批判すべき箇所は別にして、改めてこの作品を考えてみましょう
伊藤賀永関東学院大教育学部教授の論文をベースに考えます
宮崎駿は自作についてあれこれ語っているのですが、これは取材するメディアが多いからでしょうし、営業上もそうする必要があるからだと考えます。なので、作品公開に併せて雑誌などの取材で語られる内容を、額面以上にとらえるのはどうか、と思ってしまいます
「この作品のテーマは〇〇で、△△なところに注目してほしい」などと、宮崎駿がサービス精神あふれる語りをしているとは限りません


宮崎駿作品『千と千尋の神隠し』に関する一考察 子供の危機と“居場所探し”の物語として読み解く
(前略)
この物語の主人公は荻野千尋という、現代の日本のどこにでもいる10歳の少女である。
千尋は多くの主人公のように美少女でもなければ、類まれな才能の持ち主でもない。むしろ親の事情で転校しなければならないことで不貞腐れ、父親が話しかけても答えも返さない、わがままなところがある少女である。実際、宮崎はインタビューの中で再三、それまで思春期前の少女のために映画を作ってこなかったことに気付き、毎夏彼の別荘に遊びに来る友人の娘たちがそのまま主人公になったような映画を作りたかったと述べている2)。
彼によると思春期前の少女とは、「まだ、お父さんやお母さんを大切に思っている、いろいろ複雑になってくる前、お父さんお母さんに対しても、大人の決めたルールに対してもそれなりに律儀で、というところで生きている女の子達」3)である。そして彼女たちの健気さと、同時に存在する図太さに目を向けながら、「観客の10才の女の子達が、本当の自分の願いに出会う作品に、この映画をしたいと思う。」4)と抱負を述べている。
宮崎駿のアニメ作品といえば、これまでも優れたエンターテイメントでありながら、現代社会の諸問題を鋭く抉った、メッセージ性の高いものとして一般に受け止められてきた。
特に人間と自然、人間と人間の容易に共存できない、不条理な関係の追及には容赦がない。そのため折からのエコロジー・ブームの中で、宮崎駿を文明批評家として〈エコロジー〉と〈癒し〉というキーワードで語る文化人は多い5)。この『千と千尋の神隠し』(以下本文で『千と千尋』と省略)についても、舞台が現代の日本であり、登場人物が千尋一家の他に、千尋を助けて仕事の手ほどきをしてくれるリンや釜爺、母性の二面性を彷彿とさせる双子の魔女の湯婆婆と銭婆、人間界から逃げ出したゴミとヘドロまみれの河の神さま、仮面のストーカー男のカオナシ、謎の美少年のハク等と、奇奇怪怪で、現代社会を擬人化したような人物像になっているため、いやおうもなく我々の想像を掻き立てる。その結果、登場人物に自分たちの姿を投影し、その中に籠められたメッセージを読み取ろうとする試みがなされている
(中略)
そしてこのような視点で『千と千尋』を観ると、確かにここまで10歳の少女を追い詰め、自分の力で“生きる”ことに対峙させた作品は他にない。この作品では異世界に迷い込んだ千尋一家の他にも、“行き場所”を失い、“生き場所”を求めてもがき苦しんでいる孤独な者たちがひしめき合っている。そしてそれは、児童虐待にせよ、少年犯罪にせよ、昨今毎日のように起きる、子供を巡る痛ましい事件とも重なって、宮崎がこの作品を通して訴えようとしているものを検証することは、現代日本の子供の状況を把握し、打開策を見つけるための第一歩になるのではないだろうか。このような理由から、本稿では宮崎が描いた現代日本の様相、特に子供の状況に焦点を当て、「子供の危機と“居場所探し”の物語」という観点から、テクストを読み解いていきたいと思う。
2.子供と“引っ越し”
ところで『千と千尋』を読み解くキーワードの一つに、“引っ越し”があると考えられる。この物語は引っ越しのシーンから始まっている。一家は父親の運転する車に乗って、郊外の引っ越し先に向かっているが、当の千尋は友人からもらった花束を所在なさそうに抱えて、後部座敷で不貞寝をしている。その不機嫌で、ふてぶてしい態度から、千尋が引っ越しを快く思っていないことは明らかである。
(以下、略)


伊藤教授の論文はここから「引っ越し」に絡む2作品、「となりのトトロ」と「千と千尋の神隠し」の綿密な比較対象作業に入ります。揚げ足を取るようですが、引っ越し(転居)が契機になっている作品といえば「魔女の宅急便」もあるわけですが、論文では除外されています
なので、今回は引用した上記の部分の考察にあたっても基本的なスタンス、「作品をどう受け止め、そこに込められたメッセージをいかに解釈するか」について考えることにします
まず、伊藤教授は教育学部なのでこどもの虐待、育児放棄、少年犯罪といった分野に関心があり、作品を自らの研究分野に引き込んで「子供の危機と“居場所探し”の物語」との解釈を試みようとしているわけです
そのような「読み」も成立するといえば、成立するのでしょう
もちろん、宮崎駿を「自然大好きなトトロのおじさん」と信じて疑わない一部の人たちには、許容できないのかもしれませんが
今回、伊藤教授は宮崎駿を「こどもたちの心に寄り添おうとするやさしいおじさん」であると定義したいようです
論文の中程には以下のような記述があります


このように現代は千尋のように、こころの守りが薄く、いとも簡単にこころの壁を乗り越えて、こころの闇に入り込んでしまう子供が増えているように思われる。しかも身近な大人は頼みにできず、孤立無援の存在になりつつある。そしてこうした時代を生き抜くためには子供自身が自力で“生きる力”を身に付ける他はなく、しかし彼らがもともと大人に大切に守られずに育った、精神的に脆弱な子供であることを考えると、彼らに課せられた課題はなんと逆説的で、達成困難なものであることだろう。その結果、子供がこころの闇に入り込んでしまうと、そこから抜け出すことが困難になり、精神のバランスを崩して現実世界に適応できなくなった子供が増加して、子供を巡る様々な問題が顕在化し、危機的状況が深刻化しているのである。それは取りも直さず、大人がずっと以前から危機的状況に陥っていることを意味している。つまり子供が健康に育つことがだんだん難しくなってきて、しかし大人はこうした窮状を見ようとはせず、宮崎はそのことに対して非常な苛立ちと危機感を感じて、『千と千尋』を世に送り出したのではないだろうか。


いや、それはちょっと宮崎駿を高く評価しすぎるのでは?
別の評論、研究論文では宮崎駿=ペドフェリアあるいはロリコンとして解釈し、なぜ女の子だけ特別扱いするのか、と問いかけたりしています
(宮崎駿と性の問題は話が長くなりますので別の機会に譲ります)
確かに現代のこどもたちの生き辛さを宮崎駿は感じ取っているにしても、それを劇場版アニメーションで告発し、警鐘を鳴らそうと考えるほど善人でもなければ、ロマンチストでもないと自分は思います
なので、子どもを取り巻く状況に何らかの危機感を抱き、「千と千尋の神隠し」でその危機感を定式化しようとした、などと考えるのは深読みのしすぎでしょう
そして伊藤教授は結論部分で現代の親について以下のように述べています


ではなぜ日本の子育てからスキンシップが減ってしまったのだろうか。一つの説明は第3章-!2-3)で述べたように、現代の親が子供の頃から甘えさせない、自立を重んずる育児法で育てられた世代であり、彼ら自身が甘えることやスキンシップを知らずに育った可能性が大きいことである。そのため自分が経験しなかったことは、子供にも伝えられない。しかし、初めに自立した人間があるのではなく、人と交わる中で個々の人間が大切にされ、その経験を通して、分別ある、自立した人間ができることを忘れてはいけないのではないか。また別の説明は、現代の親は子供の欲求を受け止めるほど成熟しておらず、子供の欲求にきちんと対応できないということではないかと考えられる。
(中略)
そしてそうした現代の親の様相も宮崎は千尋の両親を通して鮮やかに描かき出してくれた。物語の中で千尋は成長し、本来の自分を見つけることができたが、彼女の親たちは成長することなく、千尋の内なる変化にも気付いていないようにみえる。千尋がそういった親と今後どのように付き合っていくのか、見届けたいところである。


「現代の親たちがこどもを甘えさせない」と指摘しているのは、土居健郎の「甘えの構造」からの受け売りのようです。実態はむしろ逆ではないかと思います。宮崎駿のこども時代(戦前、戦中)は、小学校を出たら親元を離れて働きに出る少年少女がいたはずです。自立を重んじていたわけではなく、そうせざるを得なかったわけですが
なので現代の親の方が意識しないまま子どもを甘やかしている、と言えるのではないでしょうか?
加えて、千尋の親がどうなろうと自分は興味を感じませんし、見届ける必要性も感じません。おそらく変わらないままでしょうから
総じて伊藤教授の論文は着原点(引っ越し)こそ目を惹かれるものの、結論としては読み違いと感じる部分が少なくありません

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