「風の谷のナウシカ」と自然・環境問題 その1

これまで当ブログでは宮崎駿の漫画版「風の谷のナウシカ」を繰り返し取り上げてきました
ただし、いままでは自然保護や環境問題との絡みについては言及を避けてきました。巷には劇場版「風の谷のナウシカ」しか観ていない人たちによる「自然環境の大切さを教えてくれる作品」とか、「科学文明の発達に疑問を投げかけ、環境保全のあり方を考えさせられる作品」等のレビューが溢れています。頭ごなしに「環境派」の感想を否定する気はないものの、劇場版「ナウシカ」しか観ていない人に漫画版「ナウシカ」について説明したところで、受け入れられないのでしょう
中には「原作の漫画はドロドロしているし、ストーリーが複雑でわかりにくい。それに比べて映画(劇場版)の方はすっきりしていてわかりやすい」との感想さえあります。毒にも薬にもならないディズニー映画と同じ扱いです
さて、愚痴を垂れてばかりではなく、漫画版「ナウシカ」における自然・環境問題について考えようと一念発起し、取り掛かりましょう
国士舘大学地理学報告に掲載された同大文学部の内田順文教授の論文から一部を引用させていただきます


宮崎駿『風の谷のナウシカ』にみる「自然一人間」観と現代人の地球環境観について
(前略)
6.コミック版『風の谷のナウシカ』と東洋的世界観
以上述べてきたように、映画『風の谷のナウシカ」は、作者の理想を優先した結果、ストーリーの展開において不自然さを抱えこんでしまった。
このことは、おそらく作者である宮崎酸も、はっきりと自覚していたはずである。それは、映画と平行して発表されたもう一つの『ナウシカ』である、コミック版の粁余曲折に読み取ることができる。映画に先立って1982年2月に始まったコミック版の原作は、はじめのうちこそ映画版とほぼ同じ展開でストーリーが進んでいったが、映画公開後から徐々に映画のストーリーを離れはじめ、やがて連載は何度も中断、最終的には連載開始から13年目の1994年3月に、映画とは全く違った形で結末を迎えた。
おそらく当初の予定では、映画のラストとほぼ同じ結末が用意されていたのではないか、と考えられるが、映画公開とともに、このストーリーが持っている矛盾も指摘され、本人もその矛盾に気づいた結果、コミック版「ナウシカ』は、誰もが、そして作者自らも納得できる結末を求めて、さまよい出すことになったのであろう。その後のいく度かの中断を挟んでの10年という長い年月は、その間の映画製作で忙しかったこともあろうが、映画版の抱えていた矛盾を乗り越えるための作者の苦闘の痕とみることもできる。
したがって、この映画公開以後のコミック版のストーリーは、映画版の矛盾に対して作者が出した新しい答えであり、それはまたこの10年という時間の中で、宮崎駿の「自然一人間」観がどのように変化したのかを示すものでもある。
コミック版での作品世界の設定は、映画版より複雑になっており、トルメキアとその南方にある土鬼(ドルク)との戦争に、トルメキアの属国である風の谷が巻き込まれるという形で話は進んでいく(第1図参照)。ストーリーは、はじめのうちこそ映画同様、「自然」対「人間」の対立の図式を中心に描かれていたが、やがてトルメキアと士鬼の戦争が話の主軸になっていき、かつての「火の7日間」と同じことを繰り返そうとする愚かな人間同士の争いを、主人公が何とかやめさせようとする話が中心を占めるようになる。
ここでいったん連載が中断され、長い休載の後に再開した物語では、ついに大海繍が起き、腐海や王墨が地球環境を守るために存在していたことがはっきりと宣言される。ここでのナウシカの立場は、「墨たちの方が私達よりずっと美しい……」(第5巻、143頁)という言葉に象徴されるように、はっきりと「自然」の側にあり、なおかつ、「人間が世界の調和を崩すと森は大きな犠牲を払ってそれをとりもどします」(第6巻、24頁)、「腐海は私達の業苦です。でも敵ではありません」(同、137頁)というように、人間はぎりぎりの線で腐海と共存していくことが可能であり(その先駆的例として「森の人」という一族が登場する)、それこそが人類の生き延びる唯一の道であることが説明される。
これは、映画における自然と人間の関係の構図と基本的には同じであり、「自然を優先することは、結果的に人間を救うことになる。なぜなら、人間は自然に守られる存在だから」という論理を、より明確に描いたものといえよう。
映画においては、この論理があまりに唐突に現れ、あっという間にハッピーエンドヘと展開したために、予定調和的なストーリーの不自然さを生じさせたことを考えると、戦いに明け暮れて他のことは省みない
愚かな「人間」の行為と、献身的ともいえる「自然」の偉大な姿を対比させながら、じっくりと描いたコミック版では、その不自然さはかなり緩和されている。ただし、ドラマが複雑化したことによって、作品の構図自体が抱えている矛盾を上手に糊塗しただけであって、矛盾が本質的に解決されたわけではない。
(中略)
まず、「自然」の象徴と目されてきた腐海と王騒が、実は人間によって作り出されたものであったことが明らかとなる。それどころか最後には、ナウシカをはじめとする人類も過去の人類によって計画的に作られたものであったことまで明かされる。
つまり、作品世界には「文明」の対立物としての「自然」は、もともと存在しておらず、「自然」と見えたものも含めて、全ては「文明」の所産だったのである。当初の課題であった「自然」対「人間」の相克の問題は、ここにおいて全く意味を失い、主人公ナウシカのみならず我々読者も、今では「真実を見極めるために」(第7巻、133頁)ラストシーンヘと向かうことになる。
急転回するのは設定ばかりではない。「生命はどんなに小さくとも外なる宇宙を内なる宇宙に持つのです」(同、133頁)、「生きることは変わることだ王墨も粘菌も草木も人間も変わっていくだろう腐海も共に生きるだろう」(同、198頁)、「その人達はなぜ気づかなかったのだろう清浄と汚濁こそ生命だということに」(同、200頁)というように、ナウシカは(というより作者は)全ての対立を超越して、あらゆるものを受け入れはじめる。これは明らかに東洋思想だ!
(以下、略)

長々と引用しました。が、この章「6.コミック版『風の谷のナウシカ』と東洋的世界観」はもっと長いのであり、関心のある方は全文を通して読んでいただきたいと思います
さて、上記に続いて結論として内田教授は以下のように述べています


彼(宮崎駿)がこうした結論に到達したことは、「自然」の側にも立たず、「人間」の側にも立たず、なおかつ論理的な矛盾を避けるためには、ある意味で当然の帰結であったといえる。なぜなら、本当の意味において「自然」と「人間」を両立させるためには、「自然」と「人間」を分けて考えるという大前提そのものを包括するような、壮大な世界観を導入するしかないからである。そして、そのような包括的な世界観は、仏教や老荘思想(道:タオ)などで用いられる東洋的な世界観として、我々日本人にとってはわりあい身近に存在している。
前章において、「人間の側に立つ(①の立場)」と「自然の側に立つ(②の立場)」以外に選択肢はなく、「人間も好き、自然も好き」という③の立場は幻想でしかないと述べたが、それは「自然」と「人間」を分けて考える、この問題の枠組みとなる世界観(それはもちろん、西洋的な二元論である)の中での話であって、この枠組み自体を否定してしまえば、③の選択は可能となる。


これまで幾つもの「ナウシカ論」を読んできた者としては、本論は前置きが長い割には平凡な結論です。もちろん、その結論(内田教授の結論と言うよりも宮崎駿の辿り着いた結論)を批判する必要はないのであり、落ち着くべきところに落ち着いたというところでしょうか?
ただし、これをもってして宮崎駿が東洋的な思想に目覚めたとか、アジア的な世界観を取り入れたなどと断定するべきではないと思います
宮崎駿がソ連邦の崩壊やユーゴスラビアの内戦を目にして、「マルクス主義はダメだ」と諦めたのは事実でしょうが、西欧の合理主義あるいは一神教の世界観をダメだと決めつけ放棄したとは限りません
同じように、自然と人間を対置する思考から解脱したと決めつけるのも先走りすぎではないでしょうか?
自然と人間を対置する手法は後の「もののけ姫」にも見られるわけで
人間社会にアシタカは身をおいてまま、山で暮らすサンに逢いに行くとの結論は、あまりに現実的です(シラケる、と言い換えてもよいでしょう)
ちなみの「もののけ姫」を構成する5つのテーマのうち、「人間と自然との関わり」と「神秘主義と合理主義の対立」の2つは「風の谷のナウシカ」にも見られるものです
漫画版「ナウシカ」で一つの結論を得たとして、必ずしも宮崎駿自身、納得しているわけではなく、後日別の作品で同じテーマ、あるいは類似したテーマを問い直す…というのは何も不思議なことではありません。「ナウシカ」から「もののけ姫」に至るまで、自然観がどう変化したのかというのも興味深い考察対象です
おそらく上記のような「ナウシカ」の結末で見出した東洋的な自然館ですら、宮崎駿の中では心から納得できない部分があるのでしょう
長くなりましたので、ここで区切りとします

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