「風の歌を聴け」 鼠は主人公の影

村上春樹の「風の歌を聴け」を取り上げます。またしても山根由美恵山口大学教育学部准教授の論文から引用させてもらいます。論文は山根准教授が広島大学大学院に在籍中に書いたものですが、自分にとっては驚きや発見がありました
既に述べたように村上春樹はこの「風の歌を聴け」と「一九七三年のピンボール」が芥川賞候補に挙げられたものの、受賞は逃しています
この話は以前にも当ブログで取り上げたところですが、あらためて芥川賞選考時の「風の歌を聴け」に対する評価を引用しておきます
「村上春樹さんの『風の歌を聴け』は、アメリカ小説の影響を受けながら自分の個性を示さうとしてゐます。もしこれが単なる模倣なら、文章の流れ方がこんなふうに淀みのない調子ではゆかないでせう。それに、作品の柄がわりあひ大きいやうに思う」(丸谷才一)
「しいてといわれれば、村上春樹氏のもので、これが群像新人賞に当選したとき、私は選者の一人であった。しかし、芥川賞というのは新人をもみくちゃにする賞で、それでも構わないと送り出しても良いものだけの力は、この作品にはない。この作品の持ち味は素材が十年間の醗酵の上に立っているところで、もう一作読まないと、心細い」(吉行淳之介)
「今日のアメリカ小説をたくみに模倣した作品もあったが、それが作者をかれ独自の創造に向けて訓練する、そのような方向づけにないのが、作者自身にも読み手にも無益な試みのように感じられた」(大江健三郎)
以上の3名が選評として言及しており、他の選考委員は何も触れていません。触れなかった選考委員に見識がないと批判したいのではなく、当時としてはその程度の反応しかなかったという実情を踏まえておきたいがための引用です
さて、山根論文に話を切り替えましょう
論文ではいくつもの先行する研究を挙げ、作品中の鼠というのは実在(あくまで小説という現実世界の中で)する人物ではなく、主人公の影と目される存在である、とする「定説」が固まっていると指摘されています
いつの間にやら、そうした「定説」ができあがっていると知り、軽いショックを受けました。村上春樹作品は好きで読んできましたが、評論や研究者の論文に目を通すようになったのは最近ですから、自分が知らなかっただけではあるのですが


村上春樹「風の歌を聴け」論ー物語の構成と〈影〉の存在
二 〈影〉の誕生
(前略)
難破船に乗り合わせた男女の別れと再会という架空の小説が鼠と女の実際の会話となり、さらにそれが「僕」と小指のない女の子のこととして語られているのだ。ここで「僕」と鼠が同一人物、結論を先に述べると、「僕」の〈影〉であるという可能性が生まれる。それに伴い「小指のない女の子」が鼠の創作した小説の人物であり、鼠と同様に「僕」の内的世界の像〈影〉である可能性が生まれるのだ。
実際にこの二人がどのように作品に描かれているか検討する。「僕」と鼠の関係については、吉行淳之介氏が「鼠という少年は、結局は主人公(作者)の分身であろうが」と評してから、鼠が「僕」の分身という説はほぼ定説の感がある。ここで「僕」や作者の「分身」として曖昧に捉えられてきた「僕」と鼠との関係を厳密に考えたい。私は、鼠という人間を「僕」の無意識下における内的世界で作りあげられた像〈影〉という概念、強調したいのは内的世界にのみ存在する人物として捉えたい。実際に「僕」が初めて鼠と出会ったのは、「三年前の春のこと」で「僕たちがが大学に入った年」(4章)18歳の春である。この時期の「僕」は「高校の終わり頃、僕はこころに思うことの半分しか口に出すまいと決心した。理由は忘れたがその思いつきを、何年かにわたって僕は実行した」(30章)という状況にあった。つまり、「僕」が自らの言葉の半分を閉じた時期に鼠という人物が登場していることから、鼠は「僕」の〈影}であることは明白である。

うーん、そうなのか
鼠については主人公を補完する意味での他者、と自分は位置づけていたので、別段、大きく驚いたわけではありません。が、映画「風の歌を聴け」での鼠役巻上公一の怪演が印象に強く残っているため、彼の存在を影として消し去ってしまう(小説の現実世界では存在しえない人物)と
解釈してしまうのは残念な気がします
自分の読みとしては、小説の現実世界で主人公の隣に存在する人物ではあるけれど、実像は小説の描写とは異なっており、主人公自身の欠落する部分を補う存在として脚色され語られている者、だと思い込んでいました
もちろん、映画「風の歌を聴け」は大森一樹監督による別の物語ですから、混同するのは避けるべきなのでしょうが
くどいようですが、映画「風の歌を聴け」をまだ視聴した経験のない方がいましたら、一度観ておくようおすすめします。ただ、原作とは大きく異なっている部分がありますので、それを含んだ上でご覧いただくよう申し添えておきます
村上春樹の小説は「喪失」あるいは「不在」を重要なテーマとしています
山根論文は結論部分で以下のように書いています

かくて、『カリフォリニア・ガールズ』で始まり、『カリフォリニア・ガールズ』で終わる『この話』とは、自らの〈影〉鼠との訣別、愛する女性との訣別という現実があり、その不在の過去を希求することで〈影〉という存在を造り出し、対話した男の物語であると言える。すなわち、不在の夢、不在の女性を歌う『カリフォリニア・ガールズ』という装置によって、二つの〈影〉と対話する自己の内的世界に突入し、そこで己の最も深い傷である1970年4月4日の物語と、1963年という全ての元凶が生まれた年の物語という二つの過去を思い出させ、そしてまた『カリフォルニア・ガールズ』に導かれつつ現実に戻るという戦略的な構成が見えてくる。

上記の結論に異論を申し立てる気はありませんが、「不在」の前には「存在」があり、「風の歌を聴け」の中には青春のバカ騒ぎという過剰で無駄にエネルギッシュな日常もあり、女の子に目移りしたり、気を引かれたりという日常もあったのでしょう
アルバイトに勤しむでもなく、勉強するでもなく、夏休み期間をダラダラと過ごす日々の先に物語が展開しているのであり、だからこそ明暗のコントラストが効果を発揮していると解釈します
また、鼠という存在が本作に続く村上小説でも登場するように、完全な訣別であるとは言えないのは確かでしょう
今回は引用しませんでしたが、山根論文は「風の歌を聴け」の構成、章立てについて精緻な読みを行っており、「カリフォルニア・ガールズ」の伏線についても読み解いています。関心のある方は一読ください

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