「海辺のカフカ」を巡る冒険 性と暴力の神話として(2)

遠藤伸治県立広島大教授の論文「村上春樹『海辺のカフカ』論ー性と暴力をめぐる現代の神話ー」を引き続き叩き台にさせてもらいます
論文は以下のアドレスからダウンロードできます

村上春樹『海辺のカフカ』論 : 性と暴力をめぐる現代の神話

前回は遠藤論文の中の、小森陽一による「海辺のカフカ」批判について触れた部分ばかり語って終わってしまいましたので、今回は別のテーマでいきます
「海辺のカフカ」の物語は、その前提としてギリシア悲劇であるオイディプス王の神話が使われています
村上春樹は「海辺のカフカ」を執筆にするにあたって、オイディプス王の神話をベースに用い、しかもそれとは異なる展開の物語にしようと企図したのでしょう
田村カフカの父親は息子に対し、繰り返し「お前はいつかその手で父親を殺し、いつか母親と交わることになる。また、姉ともいつか交わる」と繰り返し申し向け、呪いのようにカフカ少年の意識に刻み込んだ
「父は、自分を捨てて出ていった母と姉に復讐をしたかったのかもしれない。彼女たちお罰したかったのかもしれない。僕という存在を通して」というのが「海辺のカフカ」の物語の序盤の骨子です。
遠藤論文は以下のように考察しています


一 暴力の再生産装置
確かに、〈父〉が言い聞かせた〈予言〉は、「オイディプス王が受けた予言」と同じである。しかし、一方〈僕〉の語る〈物語〉は、オイディプス王の神話とは異なっている。したがって、オイディプス王の神話とこの神話の近代バージョンとも言えるフロイト的心理学や人間学を、『海辺のカフカ』という作品に単純にあてはめるべきではない。逆に、男女の役割が変化しつつある現代にあっても持ちこたえている王ディプス王の神話のフロイト的解釈、フロイト的人間学に対する批評性、それらからの逃走こそ、この『海辺のカフカ』という作品の意義は見出される。
(中略)
それゆえ〈僕〉は、〈カフカ〉と名乗り、自然的生得的な〈無意識〉についてではなく、人為的に作られた〈装置〉、〈処刑機械〉について語る。カフカの〈流刑地にて〉に登場する「複雑で目的のしれない処刑機械は、現実の僕のまわりに実際に存在したのだ」と。〈父〉こそが、最初から所有も、支配もできなかった〈母/姉〉に対する欲望と憎悪を〈息子〉に投影し、破綻したエディプス的三角関係を言葉によって捏造し、〈父殺し〉という暴力と、〈母/姉〉に対する所有・支配という欲望とを〈僕〉の中に無理やり再生産しようとするのであり、そのような〈僕〉を通して、タブーを犯した〈母/姉〉を〈罰〉し、〈処刑〉しようとする暴力的存在以外の何者でもないのだと。


こう端的に語ってしまうと身も蓋もない物語のように映ります
酒によっては暴力をふるい、刑務所に出たり入ったりする父親が、息子をそそのかし挑発して悪の道へ追い込んでしまう話、みたいな
さて、カフカ少年の父親はなぜ息子に対し、「お前はいつかその手で父親を殺し、いつか母親と交わることになる。また、姉ともいつか交わる」との予言(予言と呼ぶべきものかどうか、そこにもさまざまな解釈があります)をしたのか?
その物言いは父親殺しをそそのかしているようにも読み取れます。ならば処罰すべき対象は〈母/姉〉ではなく、〈父〉自身ということになります
ただし、その父親殺しをカフカ少年の手で実行させたのなら、今度はカフカ少年が裁かれる結果を生じるのであり、何の救いもない展開です
上記の遠藤論文では父親=暴力的存在以外の何者でもない
なので、カフカ少年に父親殺しをそそのかすような言動を繰り返した理由も、それで何の利益が得られるのかも不明なままです
以前、当ブログでは自分の解釈として「母や姉の行方を捜し、再会してはならない」との警告ではなく、「母や姉の行方を捜し求め、会いに行け」とのメッセージであると受け取れると書きました
母や姉との再会に重点を置いてあの予言を解釈するなら、「父親殺しをする前に家を離れ、母を捜しに行け」との意味でしょうか?
物語でカフカ少年は四国行きのバスで偶然姉と乗り合わせるとか、立ち寄った図書館に母親がいるという御都合主義すぎる展開もあれですが、オイディプス王の神話そのものが旅先で偶然父親と出会いそうと知らないまま殺害したり…という御都合主義的展開なのですから、「海辺のカフカ」の方にも違和感はありません
その辺りは村上春樹が意図してやっているのでしょう
「エディプスコンプレックス」を話に織り込んだ上で、なおもオイディプス王の悲劇とは別の展開を模索し、描いた(遠藤論文の言うところの「エディプスの三角関係から逃走した」)と解釈できます
ただし、ジョニー・ウォーカーに擬えたカフカ少年の父親は殺害されてしまうので、本当の意図が何であったかは不明のままです。読者の想像に委ねられた、と判斷するしかありません
もちろん、暴力の再生産という悪循環を断ち切ってそこから逃げ出す展開こそが物語の本筋ですから、父親の意図はどうでもよいことになってしまうのですが(それを問うのは、神話に登場する神様に向かって「なぜ、そうしたのか?」と問うのと同じです)

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