「ノルウェイの森」 直子の人物像について

山崎眞紀子札幌大学教授の論文「直子の乾いた声 : 村上春樹『ノルウェイの森』論、『めくらやなぎと眠る女』とともに。」から引用します
この論文は前段部分と後段部分で異なるテーマが設定されており、読んでいていくつも疑問符が浮かびました

直子の乾いた声 : 村上春樹『ノルウェイの森』論、『めくらやなぎと眠る女』とともに。

論文の前段は「ノルウェイの森」とドイツ(特にヒトラー政権下のドイツ)と関わりが見られるとして、「突撃隊」やハンブルグ空港、強制収容所を示唆するセリフなどピックアップしているのですが、その関わりが何を指し示しているのか、なかなか見えてきません
ビートルズの「ノルウェイの森」に続いて流れる曲がビリー・ジョエルであり、彼がユダヤ系であると筆者は説明します。あるいは小説の中に登場する映画「卒業」に触れ、主演のダスティン・ホフマンがユダヤ系であると筆者は説明していますが、それが「ノルウェイの森」という小説にどう影響し、関与しているのか、自分には筆者の説明が飛躍しすぎているように思えるばかりです。あるいは自分のこれまでの読みが何か決定的な誤りを犯しているのか、見落としをしているのか、とも疑ったほどです
筆者の論じるところ、「ノルウェイの森」おける「僕」の罪の意識がドイツとの関係において、鮮明になるという主張です

(論文5ページ)
彼(ビリー・ジョエル)と同じ年に生まれた「僕」が、戦時中ドイツと同盟を結んでいた過去を持つ日本に生まれ育った「僕」が、いまドイツに着陸しようとしている。「結局は消えてしまった」風景の中で、「起きろ、起きて理解しろ」と頭を蹴り続けるのは、「僕」が死者側にいるのでなく、「ここにいる」生者側にいるための意味、生きていることの意味を理解せよとのメッセージを、戦争の償い活動を行う磁場としてのドイツが彼に働きかけたいるからであると考えられる。

(論文8ページ)
以上のようにナチス・ドイツの影は『ノルウェイの森』に数多く投影されている。そしてこれらは、なぜドイツから物語は始められるのかという疑問への回答、または歴史的な記憶の意味を浮上させていくうえで重要なパン種として機能していると結論づけたい。『ノルウェイの森』の基底にある罪意識のルーツが、このように歴史性を帯び、その歴史を構築している根源的な問題へと錨を下ろしているゆえに、『ノルウェイの森』は胸を打つのだ。

前段の論文の中で、ドイツがナチス政権時代の強制労働について補償を実施するため、官民合同で基金を設置した等について説明があるのですが、それと「ノルウェイの森」がどう結びつくのか(筆者はそのドイツの償いの行動こそが村上春樹に影響を与え、「ノルウェイの森」という作品に結実したと考えている)、自分にはつながりがさっぱり理解できません
なので論文の前段部分について、言えることは皆無です
論文の後段ではタイトルにもある村上春樹の短編「めくらやなぎと眠る女」が、2編存在する点を指摘し、その読み比べから直子とキズキと僕の関係を考察しています
短編小説「めくらやなぎと眠る女」(「蛍・納屋を焼く・その他の短編」収録)と「めくらやなぎと、眠る女」(「レキシントンの幽霊」収録)で、直子の人物像にも変化があります。もちろん、キズキと直子、「僕」と直子の関係にも微妙な変化が生じます
ただ、変化しないものとして直子が病んでおり、深い苦悩を高校二年生時に抱えていたというところです


(論文14ページ)
ここに『ノルウェイの森』を重ねて考えれば、直子の高校二年生の夏の段階ですでにキズキと直子は、もはや自我を「お互いで吸収しあったりわけあったり」する関係ではなかったことが読み取れるし、この長い詩におけるやなぎそのものと眠る女両者ともに直子のことだと解釈すれば、直子は地下深くに〈闇〉を抱えていることも窺える。やがて花粉をつけた蝿がやってきて彼女は眠らされてしまうことも予兆しているのだ。彼女がめくらやなぎ自身だとすれば、彼女を眠らせてしまうものは彼女自身=彼女の傷ということになる。では果たして彼女自身の傷とは何なのか。それは「めくらやなぎ」83年版、95年版ともに「僕」の十四歳のいとこを通して抽象的に描かれている。
(中略)
自と他の不一致感に苦しむ敏感な感受性による痛みなのである。直子もこの不一致感に悩まされていた。自己と、他の世界をつなぐための言葉、この二者間が一致せず、次第に言葉が選べなくなるのだ。


ところで作者村上春樹の中で、いくつかの作品に登場する直子という女性の人物像は一貫したものなのでしょうか?
別段、一貫したものである必要はないのであり、その時々に直子が違った色合い、キャラクターで登場しても構わないのでしょう
自分には「ノルウェイの森」前後の作品に登場する直子と名付けられた人物と、「ノルウェイの森」に登場する直子が同一人物として造形されているようには思えません。また、一連の村上作品に登場する「直子」は複数の人物をモデルに構成されているのではないか、というのが自分の考えです
それゆえ、直子にはいくつかに異なる人格が備わっているようにも読めてしまい、「直子は解離性同一性障害ではなかったか」との推論も生まれるのでしょう
村上春樹は「ノルウェイの森」の直子がいかなる病気を抱えていたのか、明らかにしていませんし、特定の病気、症状を想定した上で直子という人物像を描いていたようにも思えません
そこは読者の想像に委ねられている、と解釈します
さて、最後に「めくらやなぎと眠る女」の83年版と95年版の大きな違いを、筆者は以下のように書いていますので引用しておきましょう

(論文16ページ)
95年版では、いとこに直子の痛みを映し出すのではなく、直接的に直子の問題として描き、救えなかった「僕ら」の責任を、いま、僕自身を責めている。そして、さらに大きな相違点は自らを責め混乱に陥った「僕」を、いとこが救う点である。

(論文17ページ)
以上のように、『めくらやなぎ』83年版、95年版の改稿過程を見ていく中で、発表年数から中間に位置する『ノルウェイの森』を経ることによって、95年版では僕の罪意識がより一層明確になっている過程が見えてきたはずだ。『ノルウェイの森』で「僕」が過去に向き合う覚悟を決めてそれを試みたこと、人が生きていく中で忘却せずに記憶し続けることの重要性を、作品を系列的に見ていくことで明らかにできたのではないかと思う。一見わかりにくい高校二年生の夏休みのエピソードは『めくらやなぎ』を通して、直子の問題もクリアに見えてきたと言えるのではないだろうか。


「ノルウェイの森」発表後、村上春樹が「めくらやなぎと眠る女」をわざわざ改稿したのですから、そうしなければならない理由があったのでしょう。それが高校二年生の夏休みのエピソードを整理し、三人の関係と「僕」の罪を鮮明にするためであった、という解釈です
「ノルウェイの森」と「めくらやなぎ」は、村上春樹にとって重要なつながりを持つ作品、と理解して間違いないようです

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