村上春樹 井戸と異界の物語

村上春樹の作品にはしばしば異世界(異界)が登場します。また、井戸が異世界との通路としても使われます
その点について考えるべく、いくつかの論文を読み込んできました
今回取り上げるのは井坂康志の論文です
井坂康志はピーター・ドラッカーの研究者で、ドラッカー学会の事務局長の他、いくつもの職を兼ねている人物のようです。詳しいことは分かりません(調べてないので)
論文はそのWebアドレスからしてドラッカー学会の学会誌に掲載されたものであろうと推測します

村上春樹の異界――井戸と暗渠と1995 年

さて、話の枕として作者の自作解説について少し書きます。村上春樹は時折取材に応じて自身の作品や創作作業について語っており、雑誌などに掲載されます
ただし、作家の語るところがすべて、というわけではありません
心理臨床の場でも言えるように、クライエントが自分はAである、と語ったとしても、こちらとしてはBではないか、と推察するケースがしばしばあります。この場合、クライエントがなぜ「自分はAである」と判断したのか、そう思い込んでいるのか、その思い込みの原因が何であるのか、認知に歪みはないのか、などなど考えなければなりません
あるいは小説を読んでみて、作者はこれをCであると説明したとしても、読み手の側はDであろうと解釈する場合もあります
作品を読み誤っているとか、読み違えているとか言って切り捨てることは可能ですが、どこをどう読み誤ったか、あるいは読み違えたか、はたまたCでもなく、Dでもない別の読みの可能性を考えるのが研究です
作者の語るところがすべてなら論文など書かず、インタビュー記事をコピペすればよいわけで
前置きが長くなりました。では先へ進みます
前書き部分で井坂氏は次のように書いています

(論文3ページ)
村上は95 年を日本社会が激しく航跡を変えた年とした。あえて言うまでもないながらも、95 年は二つの根源的災禍が日本を襲った年である一方で、ウィンドウズ95 の発売に象徴されるインターネットやパソコンが大衆化する原点をなす年でもあった。あらゆる観点から、時代が身繕いを終え、はっきりと進むべき方向にぴたりと人差し指を向けた年だった。
おそらく村上が――ただ一人村上だけが――時代の深層底流が根源的本性を露わにしたのを積極的に共生の礎としたばかりでなく、自らの大成の糧ともした希有な作家だった。その創造的スケールは一人の作家のそれをはるかに上回るものだった。95 年は戦前の暴力的な歴史の地下水脈が現代に通じた年と村上は直観した。いわば、涸れ井戸に水脈が戻り、新たな水路が開かれようとしていた。
村上の二つの作品『ねじまき鳥クロニクル』と、地下鉄サリン事件被害者へのルポ『アンダーグラウンド』が、村上の自覚的探求を見事なまでに裏付ける。二作ともに、村上の時代変化への清澄な内省と、クールな黙考から生まれた。

繰り返し書いていますが、「3・11以降世界は変わってしまった」などという考え方に自分は極めて批判的であり、賛同しません。なので、1995年を境に社会が激変したかのような、大上段に振りかぶった見解は大いに疑問です。鋭敏な感覚で時代の変化をとらえた、という表現も
太平洋戦争終結に境に日本の社会が大きく変化した、との見方もあり、それはそれで1つの見識でしょう。しかし、戦争が終わっても日本人は相変わらず日本人のままだ、との見方もあるわけです
自分の生活体験として1995年を境に何かが大きく変わったとの実感はないのであり、むしろなぜそんな考え方をする必要があるのか疑問です(ここから先は本題と関係ないので割愛します。村上春樹の時代認識や顕在化する暴力の関係、そこへのコミットメントなどについては、別の機会に書きます)

(論文4ページ)
作品を通して村上から読者が受け取るのは、個人的な「謎」である。内面に潜む地下通路であり、読み手の内部に眠る迷宮である。村上作品に触れる読み手は、差し出された謎に対して、自らの現実からはるか深くにはりめぐらされる地下径に気づく。ふだん作動することのない知覚器官が静かに環境に同通し、起動させられるのに気づく。打ち捨てられた野井戸の底を覗き見るように、精神の暗渠に下りていく。いつしか井戸の底からつづく異界に参入し、さまざまなものと出会う。結果、「村上さんは、私のために書いてくれたようだ」との感想となる。民族、言語、宗教かかわりない。
キーワードは井戸である。
最初に、井戸への下降に象徴される村上自身の創作法との関わりを一瞥したい。村上が精神的なエネルギーをとりだした井戸とは、お世辞にも大衆に親しみやすいものではなかった。しかし、村上の井戸を知らずに作品に接するならば、村上を半分しか知らないと言えるかもしれない。

デビュー作である「風の歌を聴け」に登場する、ハートフィールドの小説「火星の井戸」を思い起こすように、村上春樹の小説には井戸がついてまわります。「火星の井戸」はそのまま異空間への出入り口という役割を示しており、後の作品の先駆けともいえます
ただし、問題は井坂氏が井戸への下降というイメージをそのまま、村上春樹の創作法と同一視しているところにあります

(論文7ページ)
2 二つの世界の往還――「あちら側」と「こちら側」
創作の意図の推察が可能なのは、基本的な考えがしばしばエッセイやインタビューで言明されるためである。その際に、村上の真意を読む確かな方法は、発言をそのまま――いかなるプロセスも経ずに――受け取ることである。読者自身が純粋な受け手(レシヴァ)に徹することである。
村上は「小説を書いているとき、僕は暗い場所に、深い場所に下降します。井戸の底か、地下室のような場所です」と述べる。「下降」にあたって、村上は精神の能動的力あるいは精神的武器とも言える「言葉」を携える。村上にとって言葉は、村上が異界に赴き、帰還する護符でもある。護符はレシヴァとともにある。
村上は「下降」によって、新しい意識の状態、新しい体験内容を獲得する。一般的には、新たな意識や新たな体験は、外部世界に求められるかもしれない。たとえば、旅や取材、人との会談などがそれである。村上は逆の方向をとる。とらざるをえない。内なる世界からある情念の働きを感じると心の無意識の奥からある種の不安や期待感が湧き起こってくる。そして、村上も作品の主人公も情動の受け手(レシヴァ)たることが期待される。
そして、この情動の作用が、心の中に記憶像と結びつく。魂の最も奥底で、無意識的な欲求が、人生経験の中で手にした概念の何かと結びつき、意識の表面に現れてくる。だが、魂の奥から湧き上がってきた記憶であるために、外部との接触や経験によるものとは異なり、ほとんど夢に似たあり方をする。夢のようにはかなく、非現実的なものであり、ほぼ幻覚と言ってよい何かである。しかし、幻覚は、さらにレグレッシヴな論理による掘削を続けていくならば、感覚的に知覚されるのと同様に明瞭な形式をとるようになってくる。もう一つの世界が立ち現れてくるプロセスである。

村上春樹がインタビューで自身の創作法を偽っているとは思いませんが、発言を額面通り受け入れるべきであるとの井坂氏の主張にはすんなりと賛成できません。「いかなるプロセスも経ずに」とは無批判に受け入れろ、という意味でしょう
さて、どうなのでしょうか?
井戸の底へと降りて行くイメージはあくまで村上春樹自身が比喩として使っているのであり、重要なのは井戸の底へ降りて行くイメージに共感し、共有することなのか、と自分は立ち止まって考えます
井坂氏はそうしなければ村上作品を本当に理解することはできない、と言いたいのでしょう
ですが、作家の創作姿勢を読者が忠実にたどる必要があるのか、という疑問が浮かびます
作家の発想、意図、思考に沿って作品を読むというのは確かに大事なことかもしれませんが、それだけが作品の読み方ではないのであり、極端な言い方をすれば作者の意図を完全に無視した読み方も成立するわけです。雑誌のインタビュー記事など読まず、村上春樹がそこで何を語っているか知りもせず読むという選択肢もあり、でしょう
結果として、読後感が村上春樹の意図とはまったく異なるものになったとしても、その読書体験を否定する理由は何もありません
では、井戸の向こう側にある異界はどう解釈すべきなのでしょうか?
井坂論文は次のように述べています

(論文13ページ)
実際に村上は、95 年現実化する悪を、異国の地で数年も先んじて『ねじまき鳥クロニクル』に描写したわけだが、創作のなかで、村上が異界で出会った悪は、やがて現界に姿を現すはずのものだった。それでも、作家として井戸への下降をとりやめるわけにはいかない。
井戸から通ずる異界は、私たちの住む現界の原型であり、鏡の現像なのだからである。「危険な旅の熟練したガイド」として、あるいは「自己探索作業を物語の中で疑似体験させる」ことに作家生命を懸けた結果である。

異界は我々の住み暮らす現実世界の鏡像であるかもしれない、との指摘は重要です。いかに異界が村上作品の中で荒唐無稽な形で語られようとも、限りなく現実世界とつながっており、無縁ではないと。ある意味、我々が無批判に受け入れている社会のシステムの方がいびつであり、理不尽なものであるのかもしれません
そう考えるのであれば、村上春樹は安部公房や大江健三郎などの文学的な伝統を継承した(こうした表現を本人は嫌がるはず)作家であると言えるのでしょう
長くなりましたので、ここで区切りとします

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