「エヴァンゲリオン」 14歳の自意識

昨日取り上げた押井守監督の「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」に絡んでもう1つ、今度は「新世紀エヴァンゲリオン」について取り上げます
テレビシリーズとその後、公開された劇場版「THE END OF EVANGELION」について考察した論考「自己意識の牢獄─『新世紀エヴァンゲリオン』論」を引用させてもらいます
「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」について、論考は以下のように述べています


自己意識の牢獄─「新世紀エヴァンゲリオン」論
(前略。TVシリーズの後半の展開において、アニメファンの期待を裏切る展開へと舵が切られ、閉塞感が強まっていくとの説明。すなわち碇シンジは数少ない友人である鈴原トウジ、アスカや渚カオルを失い、追い詰められる…)
その閉塞された世界において、かつての快楽は不快に反転し、その閉塞された世界を破壊することが、新たな快楽になってゆく…。TV版後半から劇場版への展開は、そのようなねじれを感じさせます。
快楽的な世界が、それがたんに快楽的(退行的)であることによって、それ自体の運動をやめ、やがて停滞し、どうしようもなく閉塞してゆくという、「エヴァ」TV版後半の展開は、押井守監督のアニメ映画、「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」(1984年)を想起させます。「ビューティフル・ドリーマー」では、押井自身がチーフ・ディレクターをつとめたTV版「うる星やつら」のような、学園ラヴ・コメディ的なエンドレスのドタバタ劇が、登場人物の一人であるラムにとっての理想の世界、ラムの内宇宙の出来事として描かれています。その世界では、時間の進行はストップしており、「学園祭の前日」という一つの同じ一日が延々とループし続けています。その内宇宙では、ラムにとって邪魔な人物が次々に消えてゆき、町は、ラムの「夫」である高校生、諸星あたるの家とその近くのコンビニを除いて、廃墟となってしまいます。世界がラムにとっての理想境としての純度を高めていくにつれて、その世界の閉塞性、虚構性はますます際立ってゆきます。諸星あたるはその種の内宇宙の世界を転々としたあと、その「夢」のような内宇宙の無限連鎖の世界から「現実」に帰還しようと試みます。
「ビューティフル・ドリーマー」は、「エヴァ」が提出している、「現実は夢の終わり」というテーゼを先取りしています。「エヴァ」は、いわば「うる星やつら」のTVシリーズの世界がそのまま「ビューティフル・ドリーマー」の次元に突然移行してしまったような作品なのであり、「エヴァ」のTV版がその終局において破綻しているように見えたのは、その移行があまりにも唐突で、自己破壊的だったからです。TV版最終2話に拒否反応をおこした人々は、そのアイロニーや自己言及性に耐えられなかったのかもしれません。


学園祭の前日という状況を反復し、メガネとその仲間たちが延々とコントめいたやり取りを繰り返す=内的宇宙をぶっ壊そうとする行為は、「うる星やつら」という物語の破壊につながります。転じて「エヴァンゲリオン」のTVシリーズ前半による、来襲する使徒をあの手この手で葬り去る展開も、いわばアニメーション作品のお約束(悪を倒して正義が勝つ)であり、敢えてその快楽的なお約束を壊すことを目指した、という解釈です
上記のように、筆者はテレビ版最終2話をとことん擁護し、極めて異質な内容になったのは意図的な演出であり、明確なシリーズ構成上の作為によるものと主張します
演出の意図については庵野監督や関係者の証言を引用する手もあるわけですが、本当のことを述べているのか、単に釈明としてしゃべっているだけなのか、部外者には分かりません
なので、公開された作品を唯一の手掛かりとして考えるのでベターであり、諸々の二次情報や三次情報に振り回されるのは止めた方が賢明でしょう
自分としてはテレビ版の最終2話は破綻しており、失敗作だと解釈します。作為的なものであったにしても、視聴者にはあまりに突飛すぎて受容しきれなかったのですから
もちろん、それで「エヴァンゲリオン」という作品を否定したり、見下したりはしません。最終2話を含めて「エヴァンゲリオン」なのですから
宮崎駿の作品だってシナリオが破綻しているものが少なくありません


「エヴァ」を批判する人々の多くは、「エヴァ」に物語としての欠陥あるいは破綻があることを指摘します。確かに、シンジは自分では何もしようとしないし、「成長」も「自立」もしない。そういう指摘自体は正当なものですが、すでに述べたように、「エヴァ」が扱っているのは、もはや物語としては語りえない、自らの内面性に関わるような、自己言及的なテーマです。それを物語として評価・批判しようとするのは間違っています。
劇場公開された「THE END OF EVANGELION」は、TV版の最終2話をリメイクしたものであり、「エヴァ」の完結篇です。この完結篇の評価をめぐる最大の争点は、「エヴァ」の作品世界が内面的な自己完結性(の肯定)に終始しているのか、それとも自己意識の牢獄から抜け出す方向性を示しえているのか、という点だと思います。
一部の人々は、「エヴァ」の劇場版がビルドゥングス・ロマン的な「少年の成長と自立」のような方向で収束することを期待していたようですが、「THE END OF EVANGELION」は、そのような通俗的な物語的結末を回避し、TV版最終2話を別のかたちでやりなおしたような作品に仕上がりました。「THE END OF EVANGELION」は、TV版後半のテーマの変奏であり、反復です。それは物語的な意味での結末ではありません。
「エヴァ」の完結篇が、シンジの「成長と自立」の物語として終息しなかった、シンジが「何も変わらなかった」という解釈によって、「エヴァ」は結局自閉的なオタク的心性の自己肯定に終始した、とする批判が存在します。しかし私は、「エヴァ」は、「成長や自立」をたんに物語として語ること、その安直さ、その性急さを、あえて回避したのだと思います。


「エヴァンゲリオン」が碇シンジの成長の物語であるとの考えは基本的に間違ってはいないと思います。ただ、単なる「成長の物語」(いろいろあって、少年は大人になりました)を拒絶する意図が最初から庵野秀明監督の中にあったのかどうか?
テレビシリーズ開始時点でそこまで綿密に組み上げていたのではなく、制作過程の中で予定調和的な闘い(順番に使徒を殲滅してアニメファンを喜ばせる展開)に疑問を抱いたからこそ、本編のようなアニメファンを裏切る展開にしたのでしょう
ところがその結果、「エヴァンゲリオン」は多くのファンを獲得してしまった、というのですから皮肉なものです。ファンの中には幾種類もの人が当然いるわけで、上記のサイトで指摘しているオタク層からコアなアニメファン、マニアまでさまざまでしょう
となれば、上記の論考で展開している自己言及的で物語性を敢えて排除した「エヴァンゲリオン」をそれと受け止め、理解した人間はいったいどれだけいるのでしょうか?
ほとんどいないと推測します
だからといって上記の論考が無駄であるとは思いません。こうして「エヴァンゲリオン」を考え、解釈し、繰り返し語れるからこそ「魅力」があるわけで、語るに値しないアニメとは違います
押井守は「繰り返し語られることで映画は映画になる」と述べています。ならば「エヴァンゲリオン」も繰り返し語られるアニメーションになったのであり、その意味では成功といえるでしょう
さて、論考のタイトルに立ち返ると自意識の牢獄に囚われるのも悪いわけではないのであり、そこに何を見出すかが重要です
「エヴァンゲリオン」という罠にはまり、あがき続けるのも同様に意味がある行為であり、どうせならどっぷりはまり込んでとことんあがいてみるのも一つの選択肢でしょう
庵野監督がなおも「エヴァンゲリオン」の新作に取り組み続けているのは、まだそこに語るべき物語があると信じているからなのでは?
もちろん新作が物語性を否定し、オタク的心性をとことん批判する内容ならば筆者の考え通りだったと認めるわけです
が、ヱヴァンゲリヲン新劇場版シリーズはどれもまとも(アニメファン的な理解として)であり、アヴァンギャルドな作品にはなっていません
さらに言えば、「碇シンジ」クンは相変わらず「碇シンジ」クンのままだったりして、懐かしくさえ感じます
14歳の自意識は相変わらず、というのも1つの表現であると受け止めます(ただし、喚いたり、怒ったりと感情を顕にするのも成長の証であるとするなら、その痕跡を認めないわけにはいかないのであり、まったく成長していないと決めつけるのは不適切でしょう)
なお、論考の結末部分にある、「エヴァンゲリオン」をサルトルの「存在と無」と比べた考察に関しては、自分の中で咀嚼できていませんので今回は言及しません

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