村上春樹「アイロンのある風景」を眺めて

村上春樹の短編集「神の子どもたちはみな踊る」の中から、「アイロンのある風景」を取り上げます
以前にもこの短編集は取り上げたところですが、言い足りない部分があって気になっていました
今回は山口大学人文学部の研究紀要に掲載された平野芳信山口大学人文学部教授の論文「村上春樹『アイロンのある風景』論 : 身代わりとしての物語」から一部、引用させていただきます

村上春樹『アイロンのある風景』論 : 身代わりとしての物語
http://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/G0000006y2j2/file/9290/20100507163153/C060030000004.pdf

平野論文はこの小説が三人称で書かれており、村上春樹がデビュー作以来継続してきた一人称を止めたという点に着目し、さらには関西弁をしゃべる登場人物を配置したことへの驚きを書き記します
関西出身の村上春樹ですが、小説に登場する人物はことごとく標準語で会話するのが常でした
『アイロンのある風景」を含む短編集「神の子どもたちはみな踊る」を執筆するにあたって村上春樹の中に大きな変化があったものと考えられるのですが、それが何であるかを平野論文は考察していきます

関西弁を話す人物の登場をいったいどのように考えるか、ということに拘泥するのは、実は二つの理由があるからである。
最初に理由はこうである。筆者は初読の段階では、三宅が主人公であると思い込んでいた。ところがある時からその解釈を翻し、順子を主人公とみなすようになったのである。そのきっかけはそもそも春樹作品において、関西弁を喋る人物が登場してくることすら珍しいのに、関西弁を日常的にしゃべる人物が主人公であるはずがないと思いはじめたからだったようにも思うし、あるいは二ヵ月後に発表された『タイランド』の主人公が、明らかにさつきという女性であったからかもしれない。しかしより決定的だったのは、数年前に授業でこの作品を学生と一緒に読んだ時、正確な記録を残しているわけではないが、順子と三宅をそれぞれ主人公とみなす学生の数がほぼ同数だったという経験をしたからだと思う。

ここから先は順子を主人公と配置し、三宅を導き手という位置づけでの解釈が提起されます
そして本作品における関西弁使用の問題はこの先、「アイロンのある風景」というタイトルに関連付けられて結論が示されます
三宅が主人公で順子が聞き役、あるいは脇役という配置でも物語は成立しようにも思えるのですが、どうなのでしょうか?
もちろん作品の中で三宅がどのような背景を持つ人物であるか書かれていないのであり、明確に主人公として提示されているわけではありません
さて、平野論文は中段部分でこの短編小説のタイトル「アイロンのある風景」を疑問視し、その由来を検討しています
ここで平野論文は、千石英世の研究による指摘、アメリカの白人中流家庭においては夫がアイロンをかけるという習俗が一般化していた時期があるとの見解を引き、アイロンがけ=アメリカナイズされた生活様式・価値観との解釈を示します

それはこの作品のタイトルに関してである。この作品のタイトルは内容にふさわしくないのではないかということである。おそらくこの作品の内容を一言でいうなら吐き日の話というのが最も妥当なのではあるまいか?個人的な経験からいっても、私はこの作品のタイトルが『アイロンのある風景』ということに少なからぬ疑問を感じている。これはかなりの割合で読者の賛同がえられるのではないだろうか?
(中略)
三宅が冷蔵庫を持たぬ本当の理由は冷蔵庫の中で窒息死する夢を、彼が繰り返し見るためであった。その彼がアイロンを何かの身代わりとして描くことに注目するなら、それは明らかに冷蔵庫の代わりなのである。なぜならアイロンとは熱を発生する器械であり、その点に限っていえば冷蔵庫も同じ機能をもっているからである。
(中略)
千石英世氏は『ノルウェイの森』における主人公ワタナベノボルの「アイロンかけ」という行為に注目し、それがアメリカにおいて一九七〇年代中葉には白人既婚男性の主夫としての社会風俗的図像となっていた事実と関連付け、次のように指摘する。
◇こうした風俗考証が正しいとするなら、『ノルウェイの森』の主人公の「アイロンかけ」の趣味は、風俗における合衆国趣味(アメリカニズム)とみなすことができる。

ただし、「アイロンかけ」という生活習慣を三宅が有していたのか、小説の中に明確が記述はありません(部屋にアイロンがあったので三宅が使っていたと考えるのは自然ですが)。三宅がアメリカニズムに馴染んでいたのかどうか、平野論文では検討されていないのであり、どうにも中途半端に感じます。アメリカの白人中流階級のように、休日には三宅がアイロンかけを担当していた…と自分には思えません
そこで幾分唐突に平野論文は結論に至ります。関西弁の使用とアイロンを関連付けるわけです

春樹が関西弁を嫌い、作品の中で使用しなかったのは、『風の歌を聴け』をまず英語で書き、それを日本語に直したという有名なエピソードを引き合いに出すまでもなく、彼の舶来好みの裏返しでもあったということなのである。取り澄ました共通語をつかうということは、いわば関西弁という言葉のしわをのばしということなのではないかということである。

「アイロンのある風景」というタイトルが選ばれたのは、それがこの作品の真相を如実に表わしているからだと、自分は解釈します
つまり、三宅が描いた絵は「部屋の中にアイロンがある風景」なのですが、それは本来アイロンを使うであろう妻の不在を描いているのです
だからアイロンと冷蔵庫を並べて論じるのは無駄であり、読み違いでしょう
三宅の言う身代わりとはアイロンの存在=妻の不存在を指し示してのだ、というのが自分の読みです
ならば冷蔵庫は何か?となるのですが、これもまた明確に語られてはいません。村上春樹は日本軍の兵士であった父親から、中国人捕虜殺害の話を聞かされ、トラウマになったと述べていることから想像すれば、冷蔵庫に閉じ込められて死ぬ夢というのは何かトラウマを示しているのだろうと推測されます。実際に三宅の誰か身近な人物がそうした死を迎えたのか?
ただ、小説のタイトルが「冷蔵庫のある風景」ではないので、重要度からすれば冷蔵庫は二番目以降のエピソードでしょう
より重要なのは「アイロンのある風景」なのですから

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