「涼宮ハルヒ」の独我論を読んで

数年ぶりに「涼宮ハルヒ」シリーズの新刊が出るとアナウンスされているのを機会に、「涼宮ハルヒ」について考えようと思い立ちました
今回は静岡大学情報学部の吉田寛教授の論文「『涼宮ハルヒ』の独我論」を叩き台にして話を進めます

「涼宮ハルヒ」の独我論

以下、吉田論文からの引用は赤字で、自分のコメントは黒字で表示します
「涼宮ハルヒ」シリーズの主人公涼宮ハルヒはとても孤独な存在です。それをハルヒのエキセントリックな性格ゆえ、と説明することはできますし、他者を小馬鹿にした偉そうな態度や物言いに問題があると指摘することもできます
スクールカウンセラーなら、「もっと周囲の人の話に耳を傾け、聞く姿勢を示し、受け入れよう」とか、「自分から積極的に話しかけるよう努力しましょう。昨夜のテレビ番組の話題でもなんでもいいから」など助言をするのかもしれません。もちろん、ハルヒは助言など受け入れないわけですが
さて、上記の吉田論文ではハルヒの孤独を独我論から説明しており、これはまさに「目からウロコ」と言うべき発想です
これまで涼宮ハルヒを特別な存在、として強調する見解にはいくつも出会っていますが、ここまで端的にハルヒの孤独を真正面から言い当てた見解には初めて遭遇しました(自分の見識不足あるいは情報不足があるにしても)

しかし、ハルヒは独我論者として孤独でもある。なぜなら、自分と同等の存在者がこの世に存在しないからだ。精神を交流させる相手が見つからないからだ。そこで、ハルヒが求めているのは、宇宙人、異世界人、超能力者、未来人といった、この世界には存在しない、何らかのいみでこの世界の外側の存在者たちなのである。つまりハルヒを独我論者と考えると、彼女はハルヒ的世界における主である自分と同等の、いわば夢の主と同等の、世界の外側の存在者を求めていると了解できるだろう。
(中略)
つまりハルヒも含めてすべての人間が、いわば夢の中の登場人物に過ぎない状態である。すなわち、ここで展開されている世界観は、世界の中にただ登場人物だけが存在する「純粋な実在論」(ウィトゲンシュタイン)である。
しかし、それに気付いている存在者、すなわちそう語っているハルヒ自身は、夢を見ている夢の主のように、じつは世界の中のたった一人の主人公なのではないかと考える余地が発生する。
こうして、ハルヒの意識は、ウィトゲンシュタイン『論考』5.64 の指摘する「純粋な実在論」から独我論者の「私の世界」へ転化したものとして読者に示されるのである。そして、作品中でのハルヒの孤独を帯びた傍若無人ぶりが、独我論者としてのハルヒの世界観によって読者に説明されるのである。

涼宮ハルヒを中心としたドタバタコメディはそれはそれで面白いのですが、独我論者のハルヒがいつまでも孤独なままでは物語になりません
吉田論文は上記のような独我論に終始したままでは、物語がとても退屈なものになると指摘しています。

このようなアプローチによって『涼宮ハルヒ』の一連の作品群は、まず佐々木敦がまとめているようにベタな世界系の独我論と読まれることになるだろう。「作中世界の何もかもが、結局のところはハルヒの無意識に帰着する『ハルヒ』も、言うまでもなく一種の、というか究極の「セカイ系」と捉えることが出来る。~略~。デカルト的懐疑の極端な真に受けというか、ベタな独我論のようなものである」

つまりデカルトの「我思う、ゆえに我あり」を模したように「ハルヒが思う、ゆえに世界あり」という疑似SF風学園コメディに終わったでしょう
そこで重要な役割を果たすのが語り手であるキョンの存在である、と吉田論文は注目し、キョンの役割を考察していきます

物語はこうした「平凡」なキョンが、パワフルな独我論少女であるハルヒに引きずられ、その「平凡」な常識を混乱させ続けられる展開である。キョンは、確かにハルヒとは異なり、おおむね標準的な人物として描写されており、また自分が平凡であるという自覚を強く持っている。キョンはハルヒとは異なり、人を人と思わないような突拍子もない独我論的な行動を取るわけではない。こうしたキョンのキャラクターだから、平凡な日常を生きる読者にとって、キョンは物語の狂言回しとしての役割がつとまるのだ。
(中略)
キョンは、夢の中にいながらもそれを夢として意識する者が夢の主であるように、世界をそうした世界として意識するという意味で特別な主体でもある。この意味で、キョンは確かに「平凡」だけれども、じつはハルヒと同様の独我論的傾向を持つという意味で特別な人物であると言える。キョンが何事にも執着しないキャラクターであり、特別に誰かと心を交感しあったりすることもなく平々凡々として日常を生きてきた人物として描かれることも、こうしたキョンの世界観によるものとして改めて理解されるだろう。したがってキョンは、あくまで潜在的にではあるが、ハルヒと同様に独我論的な孤独に縁取られた登場人物である。

キョンの役割については様々な議論があるところです
ただ、ハルヒとの関係で言うならば、キョンはハルヒを好きなのでしょうが決してそれを認めまいという態度を貫いており、ハルヒもキョンを好きなのでしょうが決してそれを認めようとはしないままです。キョンに対して「恋愛は精神病だ」とまで言い切って嫌悪を示します
同年代の女子にすれば恋愛こそすべてであり、高校の同級生に運命の出会いを求め、誰よりも早く彼氏を作ることこそ日常の生きる目的であるかのごとき価値観を有しています(漫画やアニメ的世界の話です)
吉田論文はこの恋愛の部分を「萌え」と表現しています
大雑把に言えば、独我論的な涼宮ハルヒの世界が「萌え」によって転換する物語である、との主張です

つまり、『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品は、テキストを読み進めるにつれて、新しい読みが前の読みを回収していき、そのプロセスの果てに、最終的に「萌え」、東の言う「まんが・アニメ的リアリズムの世界」に到達する物語なのである。おそらく、このプロセスによって誘導される読みの多重性、そして還元性こそが、哲学的なしかけを生かしたこの作品の魅力であると言うべきだろう。
『憂鬱』の読者は、最初はキョンの目を通して、ハルヒの破天荒ぶり、そしてその独我論的世界観に驚きつつも興味を引かれるだろう。ハルヒ
の独我論的孤独に触れて、ハルヒというキャラクターに意外な共感を覚えるかもしれない。その上で、飯田が「切実さ」と表現したキョンとハルヒの内面の交流へと導かれていく。ところが並行して、それが読者の代理でもあるキョンの独我論的妄想として物語を解釈する可能性がしだいに有力になっていく。そして最後に、こうした一切の形而上的問題や実存的問題をキョン=作者/読者の「萌え」によって吸収する。

ただし、物語(シリーズとして)はそのような展開で決着しないのであり、再び学園ドタバタコメディへと回帰する形になります
夜の学校でハルヒとキョンが2人きりとなり、それでも現実世界への帰還を果たす展開で終わっていれば、「涼宮ハルヒ」は名作たり得たと思います。が、作者の本意か角川書店の営業戦術か、シリーズが引き伸ばされた結果、ただの「ライトノベル」になってしまったのは残念です
最後に、論文の冒頭に掲げられたウィトゲンシュタインの言葉に触れます

独我論が貫徹されると、純粋な実在論と一致することがここで見てとられるのである。独我論の自我は広がりを欠いた点にまで収縮し、そして自我に合致した実在は残されるのである。」(L. ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』

解釈すると、涼宮ハルヒの独我論がやがて自我に相応した実存として立ち現れる(残される)のだ、と。ただし、読者は自我に相応した実存としてのハルヒを求めたのではなく、ハチャメチャな独我論としてのハルヒを求めたのであり、その求めに応じる形でシリーズがだらだらと長期化したと言えるのかもしれません

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