大友克洋「AKIRA」 国家ビジョンを考える

日本のアニメーション作品の記念碑的名作である大友克洋の「AKIRA」を取り上げます
いつものように叩き台というか、糸口となる論文を探したところ、藤森かよこ桃山学院大学教授のものが見つかりました
ただし、内容はアレです。桃山学院と韓国の大学の合同学術セミナーの場で発表されたものであり、日本をビジョンなき国家とこき下ろすために大友克洋の「AKIRA」を引き合いに使っています(もちろん、個人がいかなる思想・信条を抱こうともそれは個人の自由であり、目の敵にして攻撃するような真似をするつもりはありません)
アニメーション作品そのものを語ろという本来の趣旨からは外れますが、せっかくなので使わせていただきます
なお、論文からの引用は句点を省略したり、カンマから変更したり、英文の注釈を省略するなど手を加えていますが、原文は損ねていないつもりです

ヴィジョンなき国家のアニメー大友克洋作Akira

まえがき部分では日本を、21世紀になってもナショナル・アイデンティティを持てない国であると書いています。その認識には賛成できないのですが、見識の1つであるのは確かでしょう。ただ逆に政府が明確な国家ビジョンを掲げ、国民にそのビジョンへの参画を強要するのであれば、意見の対立、社会の分断やら同調圧力など問題になるわけです
なので、曖昧な国家ビジョンで誤魔化す、というのも1つの処世術であるのかもしれません
さて、論文の方に目を転じましょう。「AKIRA」の粗筋の紹介から本題へ入ります

AKIRAと1980年代の日本
2007年の視点から見ると、このアニメに横溢する祝祭的乱痴気騒ぎのムードは、1980年代の日本の高揚を反映しています。Japan as Number Oneとは, 日本研究者の Ezra Vogel が1979年に発表した本の題名ですが、そのような本が出版されるほど、70年代から80年代の日本の経済的台頭は著しいものでした。
第二次世界大戦敗北以来、初めて多くの日本人が、「アメリカなんて、 大したことはない」という気分にひたった時代でもありました。
2007年現在からアニメ Akira を見ると、鉄雄の「弱者」から「強者」への変容は、敗戦国から経済大国へという第二次大戦の日本の変容と重なって見えます。この印象は私だけのものではありません。日本文学研究者であり、かつ卓越した日本アニメ研究者でもある SusanJ. Napier は, Akira が、1980年代の日本の経済的成功状況を遂げた時期に製作されていることに注目しています。
「強くなって, 制約を受けずに行動し、かつて自分を苛めた人間や世間に、その力を誇示すること」という、鉄雄の変容のような題材は思春期の人間が持ちやすい欲望のひとつですから、この題材そのものは大衆娯楽作品には珍しくありません。私が問題にしたいのは、この鉄雄のありようが、第二次世界大戦の敗北から経済大国への台頭という日本の戦後史と重なるばかりでなく、明治以降の日本のありようとも重なって見えるということなのです。
はっきり言えば、Akira における鉄雄の変容は、日本の歴史のありようと重なって見えるということなのです。

スーザン・ネイピアは日本のアニメーション作品を論じている研究者です。「AKIRA」が日本経済の成功状況の時期に制作されたという判断は微妙なところです。そもそも原作漫画は1982年に雑誌連載が始まっているのですが、いわゆるバブル経済の時期というのは1988年から
1992年頃とされています。なので、「AKIRA」はバブル経済の繁栄と退廃を先取りしていたと解釈されるのではないでしょうか?
土地の異常な値上がりにより、日本列島の地価でアメリカ全土を買えてしまうなどという馬鹿げた事態が起こり、根拠のない自信がみなぎっていた時代であるのは確かです。大学出の新入社員がアルマーニのスーツで初出社する、なんてエピソードもありました
ただ、「AKIRA」における鉄雄の変容が日本の歴史のありようと重なっているのか、は疑問です
超能力の発現による鉄雄の意識や行動の変容は、いわゆる中二病をこじらせたようなもので、必ずしも日本の歴史とリンクしているとは思えないからです
論文はこの先、唐突に岸田秀による珍妙な歴史観の引用が始まります。岸田秀は精神分析の知見を社会批評に反映させたエッセイで知られた人物ですが、歴史学者ではありません(史的唯幻論、という学説を唱えてはいますが、自分には居酒屋政談の類と大差ないように感じられます)
歴史の解釈を巡ってあれこれ言い出すとますます本題から離れてしまいますので、これ以上は踏み込まずにおきます

ここで、個人を対象にした精神分析を、歴史や国家にもあてはめて歴史解読を試みる日本の心理学者の岸田秀の見解が参考になります。岸田は日本という国が、歴史を通じて、「国際化と非国際化 (言い換えれば鎖国) との葛藤に引き裂かれ、揺れ続けている」と指摘しました。「実際には文化的、政治的、経済的、軍事的に諸外国に依存していたり、または諸外国と深い関係があったりするにもかかわらず、諸外国との関係から幻想的に逃亡し、諸外国の影響を幻想的に否認して独立自尊の幻想に閉じこもろうとする傾向」が日本にはあると、岸田は言うのです。
自己の独自性や独立性に非現実的に固執することは、個人でも国家でも, よくありがちなことだと思われますが、外部との関係に対する日本が抱く不安というのは、日本に特徴的なものであるらしく、岸田と似た指摘を映画研究者の Marie Morimoto もしています。Morimoto は「日本の文化的自己表象における主要なテーマは、あらゆる不如意に抵抗し戦う孤独な国家の国民というものであり、その国民は、他の国の国民とは違って独特で、だからこそ孤独で、犠牲者になりやすいというものである」 と述べています
つまり、日本人は、日本は他のどの国とも違って特別だけれども、その独自性ゆえに孤独であり、諸外国とのつきあいでは被害者になりやすい可哀相な国だと思っていると、Morimoto は言うのです。

アニメーションでの一般論に戻すと、敵の組織(この場合は政府)があまりに強固で優秀すぎたならストーリーになりません。ある程度放埒で無能でないと困るのです。隙だらけとまでは言いませんが、つけ入れる部分があってこそストーリーが成立します
その点、日本は与野党の政治家ともビジョンが欠けており、官僚はそこそこ優秀でも、国家としては隙がありますので、扱いやすい素材といえます
さて、日本人は自分たち日本人を特別な存在だと思い込んでいるとの指摘ですが、これは他の民族にもいえるのであり際立った特徴とは言えません。中国人(漢民族)は自分たちを特別な存在であると思い込んでいるわけですし、韓国人もそうでしょう
なので、日本の何か顕著な傾向、特徴を言い当てたことにはならないのです
また、「AKIRA」が多くの国の人たちに視聴されたのですから、日本的な際立った特徴を海外の視聴者はそこに観たのではなく、自分たちの身近な社会に還元して解釈し、理解したととらえるべきではないでしょうか?

選択と構築
まとめに入りたいと思います。私は、本報告で、アニメ Akira に描かれた鉄雄の変容と自己制御不能の状況と、ネオ東京の空虚な繁栄と、その危なっかしさが、経済的成功を獲得しながらも、その成功をどう生かしてゆくかに関するヴィジョンを持たなかった1980年代の日本の状況と重なると言いました。
その日本のヴィジョン不在の原因は、日本の自己把握の失敗だと言いました。言い換えれば、それは日本に真の national identity がないからだと言いました。その原因は岸田秀をはじめとする他の研究者の説によって、推測されました。これらによって、明らかになったことは、以下のとおりです。
個人と同じく、国家もまた、自己が何ものであるかに関して確信が持てないと、自己の独自性や独立性に非現実的に固執しがちになり、他者との現実的対処に失敗すること。その問題に関しては、自分が意識していれば、何らかの対策のたてようもあるが、自分が意識していないのならば、その問題はずっと強迫的に反復されること。その例は、日本の起源に端を発した、国際化と非国際化 (鎖国) の間を揺れ動く日本の歴史であること。このような状況に陥る個人の人生は危険なものになりやすいですが、同じく、国家がそのような状況に陥ることによって生じる危険と悲惨さと「はた迷惑」は、日本の近代から現代にかけての戦争の歴史が実例であること、などです。

また歴史が登場します。「帝国主義の跋扈した時代にあって、日本がアジアで独立を維持するためには欧米列強と戦争するしかなかった」とまでは言いませんが、太平洋戦争を回避できたかどうか、というのは歴史における「if」を語るのと同じであり、益のない行為でしょう
幸運か偶然かはともかく、日本が太平洋戦争後、直接的な戦争を避けて今日に至っているのですから、これはこれで良しとするべきなのでは?
政府が強烈な国家ビジョンを提唱したり、国民に押し付けようとしなかったのも、それはそれで評価できるのではないでしょうか?
中国の習近平が「中華民族の偉大なる復興こそが、近代以降の中華民族の最も偉大な夢だ。この夢には、過去何代もの中国人の想いが込められている」などとビジョンを提起しているのですが、日本もそうするべきだとは思えません。あるいは韓国のように「日本に追いつき、追い越す」とのビジョンを振りかざし、特許権や商標を侵害しても日本を出し抜いて儲ければ勝ち、などという下卑たアイデンティティを抱くようにはなりたくありません
「AKIRA」から離れたことばかり書きました。ちなみに藤森かよこ氏は大学を退職し、エッセイストとして活躍しています。本人は超個人主義者であると語っており、政治的に右でも左でもありません

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