札幌の中学教諭 28年前のわいせつ行為で懲戒免職

札幌市の公立中学校に勤務する男性教師(56歳)が、28年前に教え子であった女子生徒のわいせつ行為を繰り返していたと損害賠償請求を求められる事件がありました。東京高等裁判所は賠償請求権がすでに消滅しているとして請求を退けたのですが、教諭によるわいせつ行為はあったと認定しています
この民事訴訟の判断を受け、札幌市教育委員会は男性教師を懲戒免職処分にしたと報道されています
公務員である教師の非違行為は、たとえ28年前であっても在職中のものですから、懲戒処分の対象になるわけです


1993年に当時教え子だった女子生徒にわいせつな行為をしたとして、札幌市教育委員会は28日、市立中学校に勤務する男性教諭(56)を懲戒免職とした。女子生徒側が起こした民事訴訟で昨年12月、東京高裁が性的被害を認定する判決を出したことを受け、市教委が調査していた。市教委は「司法判断を重くみた」として、28年前のわいせつ行為を認定した。
市教委の発表によると、教諭は93~94年、教え子だった石田郁子さん(43)(東京都在住)に対し、自宅でキスをしたり、校内で体を触ったりした。石田さんは心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症したなどとして2019年、教諭や市に損害賠償を求めて提訴。昨年12月の東京高裁判決は、賠償請求権が消滅する「除斥期間」(20年)が過ぎたとして請求を退けた一方、高校時代まで性的行為があったと認定した。同判決は確定した。
市教委は過去の調査では「被害の事実を確認できない」としていたが、高裁判決を受けて今月、教諭から聞き取りを行うなど再調査を実施。教諭は改めてわいせつ行為を否定したが、市教委は判決の認定を覆すに至らないと判断した。
紺野宏子・教職員担当部長は28日の記者会見で、「(懲戒処分に)時効というものはない」と述べた。
教諭の代理人弁護士は同日、「訴訟は性的行為の有無ではなく除斥期間を争っていた。判決は懲戒処分の根拠にならない」とコメントし、市人事委員会に不服を申し立てる方針を明らかにした。
石田さんは「ショックが大きいほど、被害を受けたと気付くには時間がかかる。被害者が声をあげられるように社会が変わってほしい」と話した。
(読売新聞の記事から引用)


被害者である石田さんはこれまでにも札幌市教育委員会に被害を訴えてきたものの、教育委員会はわいせつ行為があったとは認められないとして教諭への処分は行いませんでした
東京高裁の判決を受け、ようやく重い腰を上げた格好です。もちろん、教育委員会は人事権を有してはいるものの、捜査機関ではありませんので過去のわいせつ行為があったのか、なかったのかを判断できないという事情はあるわけですが、もっと別の対処はできなかったのか、という気がします
石田さんは過去に教諭から受け取った手紙の内容も明かし、札幌教育委員会に教諭の処分を求める申し立てをしましたが、相談員を名乗る年配の女性が電話で「愚痴」を聞くという対応をしただけ、と明かしています
上記の記事にもあるように20年を経過しているため、民事上の損害賠償はできないのであり、加害者である教諭に法的な責任を問えません。ただ、教諭が公務員として在職中であったため、懲戒を求めることはできた、という事案です
石田さんはメディアの取材に応じ、15歳から17歳にかけてわいせつ行為を受けた際は、「恋愛だと思っていた」と述べています。男性教諭は「愛している」などと口走っていたのでしょう。しかし、結婚まで考えていたわけでもなく、熱が冷めたら放り出しています
こうしたケースで、わいせつ行為をする教師は「恋愛だった」とか、「真剣に愛していた」などと言い逃れをするのがしばしばです
しかし、18歳未満の女子生徒に手を出すのは法令に反するのであり、愛だの恋だのと誤魔化すのは大間違いです
問題の男性教諭は結婚し、2人のこどもがいるのだとか。28年前の、生徒を弄んだ代償として懲戒免職を受け入れているのか、あるいは石田さんによって幸せな家庭を破壊されたと恨んでいるのか、聴いてみたいものです

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押井守「イノセンス」で考えるゴーストと身体

「Ghost in the Shell /攻殻機動隊」の続編である押井守監督作品「イノセンス」は、監督自身これを身体論であると言明しています。前作で「ゴースト」の存在を突き詰め、疑問視してきた経緯(記憶が自分を自分であると規定するものの、その記憶自体が偽物である可能性は否定できない。記憶が偽物であったなら、何をもって自分が自分であると同定できるのか?)を踏まえると、なぜゴーストの存在をさらに突き詰めようとせず、身体論へ回帰してしまったのか、という疑問が湧きます
そこで身体とゴーストの関係性を再び考え直す必要が生じるわけです。この場合のゴーストをフロイト派の精神分析理論なら自我と名付けるのでしょうし、ラカン派の精神分析理論なら主体と名付けるのでしょう
今回は根村直美日本大学経済学部教授の論文から引用しつつ、考えます

『イノセンス』に見るポスト・ヒューマニズムと<身体>の構築主義

論文の中身は抄録によると以下の内容になっています(論文で使われているカンマを句点に変更しています)

本稿では、まず、押井守監督の映画『イノセンス』と欧米発の「サイボーグ映画」との比較考察を行った。そして、『イノセンス』には,「ポスト・モダン」状況の中で呼び起こされつつある理論的・思想的な懐疑がヒューマニズムへと回収されてしまうのを回避しようとする思考が認められることを明らかにし、そのような思考をポスト・ヒューマニズムと呼んだ。
続いて、そうしたポスト・ヒューマニズムがどのような身体図式・イメージをうみだしているのかを分析することを試みた。『イノセンス』においては、人形の身体は人工的に構築されたものとして捉えられている。その身体図式・イメージは,映画全体の基調となっているのであるが、人形の身体は、実は人間の身体の表現に他ならない。すなわち、『イノセンス』は、その<社会的に構築されたもの>という身体理解を通じて、<有機体>としての<人間の身体>に付与された<神秘性>から我々を解き放ったのである。
また、『イノセンス』の身体図式・イメージにおいては、構築される身体とは、<他者>と関わることにより立ち現れる具体的な状況において、画定された境界線をもつ。すなわち、その身体は、自分ではないが自分の一部であるような<他者>とのネットワークと相互作用がうみだす「偶発性」に基づくものである。しかも、そうした身体図式・イメージは、ヒューマニズムの枠組みには回収されえない<他者>への<敬意>とも結びついているのである。

さて、ここで根村教授の言うポスト・ヒューマニズムという概念を考えなければなりません。
論文内では、「人間の<自己および世界を認識しうる能力>や<社会的責任を担う能力>などを賛美するという意味での『ヒューマニズム』への回収を拒否し、それとは異質な存在に、その<異質性>を維持したまま<敬意>を示そうとする姿勢を“ポスト・ヒューマニズム”と称して、今後の議論を進めていきたい」と記されています
これだけでは解りづらいので、あまり適切なアシストではないのですが、言い換えます。「人間らしさ」として美徳とされる情緒や情動に結びつけるのを拒絶し、人間らしからぬ反応や行動にも理解と敬意を示し、受け入れようとする姿勢を「ポスト・ヒューマニズム」と呼ぶのであり、それは機械の身体、あるいは機械で構成される電脳も、有機生命体であるところの人間と差別することなく受け入れる、という意味です
つまり「イノセンス」では機械の体、人形も、同じものとして解するところに立脚している、と考えて先へ進みましょう

4 『イノセンス』における身体図式・イメージ
続いて、本節では、ポスト・ヒューマニズムと称することができる思考が『イノセンス』の通奏低音であることを受けつつ、そこに示された身体図式・イメージを明らかにすることに取り組みたいと考えている。しかしながら、そのテーマに取り組むに際して直面するのは、方法論上の
困難である。筆者は、『Ghost in the Shell /攻殻機動隊』の分析において、Ingrid Richardsonと Carly Harperが Maurice Merleau-Pontyの議論を基に展開した現象学的方法を取った(根村,2014)。
その方法の「身体図式」、あるいは、「身体イメージ」という概念は、我々に、「科学」や「常識」という先入観をわきに置き、「生きられている経験」についての意識を省察することを求める(Richardson and Harper, 2002: online)。 また、「科学」や「常識」が提示する身体像にとらわれない身体理解を指すということは、現象学のその概念が身体の「虚構的(fictional)、あるいは、象徴的な(symbolic)」マッピングという観念を含むことを意味する(Richardson and Harper,2002: online)。そこで、その概念を電子テクノロジーと関連した様々な文化的営為であるサイバー・カルチャーの研究に有効なものと位置付け、現象学的方法に拠って立ち草薙の身体経験がどのようなものかを分析することを試みたのである。

根村教授の先行研究である「サイバー・カルチャーにおける<身体>の現象学的分析―映画『Ghost in the Shell /攻殻機動隊』をめぐって―」(2014)を先に読んでおくべきだったと気づいたのですが、現時点でこの論文は入手できていません。なので、「身体図式・イメージ」についての現象学的方法論というものが何を指すのか、保留です
以下の部分が現象学的方法を示唆しており、何となく推測はできます

筆者は,『Ghost in the Shell /攻殻機動隊』を分析した際に、Angus McBlaneの議論を参考に(McBlane, 2010)、 <私>という意識を<人間>たらしめるのは身体の<有機体的な要素>であり、身体の<有機体的な統一性>が高ければ高いほど<人間性>が確かなものになるという考えが認められることを示した(根村、 2014)。
これに対し、『イノセンス』においては、<有機体>としての<人間の身体>(11)への特権の付与は成り立ちえない。社会構築主義的な立場に基づくとき、<有機体>としての身体もまた、機械と人間、生物と無機物とを区別するために、我々がそのようなものとして把握し理解したものでしかないからである。身体を<構築的なもの>と捉えるパースペクティブに拠って立つとき、<有機体>としての<人間の身体>は、<私>という意識を<人間>たらしめるというような、特別な地位にあるものと捉えられることはないのである。
『イノセンス』は、 身体の<不在>を通じて、<有機体>としての<人間の身体>に付与された<神秘性>から我々を解き放ったと言えるであろう。すなわち、その社会構築主義的なパースペクティブを前提にするならば、<有機体>としての<人間の身体>が本来的に何か特別な優越的地位をもっていると考えることに対して疑義を示すことこそが、『イノセンス』の最大のテーマと見ることができるのである。

「イノセンス」において草薙素子は実態として(いつもの少佐の義体で)登場することなく、仮の姿で顕現します。もはや少佐のいつもの義体である必要はないのであり、ネット上に存在するゴーストこそが草薙素子そのもので、現世との関わりは手足となる人形で間に合うとの考えなのでしょう
これが「〈有機体〉としての〈人間の身体〉に特別な優越性を認める必要などないのでは?」という「イノセンス」の主張であると根村教授は指摘しているのです
ただ、物語に一枚噛んでいるバトーは心の底から賛成はしないはずです。草薙素子を愛し、いまでも彼女を求めているバトーにすれば草薙素子の肉体(それが義体という機械であっても)を含めた彼女の存在が愛しいのであり、ゴーストだけというのは不満でしょう

5 『イノセンス』における「ゴースト」
(前略)
『イノセンス』においても、「ゴーストダビング」といった概念などを通じて、「ゴースト」がその人の<私>という意識、言い換えれば、<主体>に関わることが示唆されている。と同時に、第4節において考察したように、『イノセンス』では、「ゴースト」は、<他者>とのネットワークと相互作用によって作りだされる身体でもある。これはつまり、<他者>とのネットワークと相互作用によって作りだされる身体に、何らかの行為主体の立ち現れが想定されているということであろう。
『イノセンス』では、それぞれの場面を織りなす行為主体たちは、<他者>とのネットワークと相互作用の中で構築される身体を通じて現れる。言い換えれば、行為主体性の現れとともに構築される身体=構築される身体とともに現れる行為主体性が、「ゴースト」として捉えられていると言えよう。

根村論文がメルロ=ポンティの「知覚の現象学」にも言及しているように、人間の知的な意思表示、あるいは情動の表現というのは言語活動だけにとどまらず、身体を介しても表示されます。眼差しであれ、手指の動きであれ、それは言語に劣らず人の考えや感情を表現します
精神分析は被分析者の心という曖昧な存在を相手にするのではなく、被分析者の服装であったり、手首の疵であったり、その家族関係を含む人間関係、社会的な立場といったものを全部ひっくりめた実存を相手にしているのだ、と「知覚の現象学」を読んで感じました
その文脈からすれば、ゴーストは身体と不可分な存在と考えられます。これが通常の「身体論」でしょう
ただし、上記のようにゴーストを〈他者〉とのネットワークと相互作用によって作り出される身体とするならば、従来の「身体論」を根底からひっくりかえす発想といえます
そこでは当然のごとく、身体かゴーストかという二元論は否定され、行為主体としての存在=身体であり、その主体性そのものをゴーストと呼ぶことになります
なかなか興味深い思考が展開されています
ただ、思春期真っ只中の、好きな女の子のことばかり考えて悶々としている少年に向けて、「ネットワーク上で一つになりましょう」と女の子が誘いをかけても、「???」でしかないのでしょう。「イノセンス」のバトーにしても草薙素子とネットワーク上で合体すること(前作における草薙素子と人形遣いのように)は断固として拒否するはずです。「オレはそんなことを求めているんじゃない」と
バトーにとっては、「オレであるオレが、草薙素子である草薙素子を愛しく思い、求めている」ことが重要なのですから

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https://05448081.at.webry.info/202102/article_4.html
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