ドラマとしての「攻殻機動隊」を問う

押井守監督の作品「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」と「イノセンス」について考えるシリーズです
この2作の場合、ビジュアル(画像表現)について語られる場合が多いのですが、ドラマとしての作りとそれを構成する台詞について取り上げようというのが今回の狙いです
岸田真桜美林大学教授の論文「『攻殻機動隊』のドラマツルギー」を参考にして考えます

『攻殻機動隊』のドラマツルギー

論文の前半部分は近代・現代の演劇史の俯瞰と呼ぶべき内容です。筆者岸田教授は演劇の専門家です
演劇における表現技法の革新から、話はアイデンティティに移ります
心理学者エリク・エリクソンにはユダヤ系デンマーク人の母親がいたのですが、母やエリクソンに対して父親が誰であるか秘匿していました。そのためエリクソンは自身の出自に不安と戸惑いを抱き、それが後にアイデンティティ(自己同一性)という概念に結びついたとされます
この自我同一性を問うエリクソンの理論から草薙素子の行動と心理を、岸田論文では考察しています

(論文12ページ)
アイデンティティとは安定的で独立した心理学的実体ではない。人は他者と接するときには、その場に応じて常に別の役割を再構成するからである。ゴッフマンが記述する多くの論稿の中で彼は、人間は本当にあるはずのものを発見できないだけでなく、その本性においてゆらぎをもつものであることをも強調している。「重要なことは、人が担う役割の背後で彼がどの様な種類の人間であるかについて、それらの役割を演じることを通して具備されるその意識である」と彼は記述している。
(中略)
外的、社会的な場で見せる行動は、その個人の真の姿ではない。現実の場において、アイデンティティは覆い隠され、自分でも認識できなくなり、失われている。なぜならそこには他者がいるからである。
こうした社会学理論やエリクソンやピランデルロの個人的背景とは異なり、自分の存在について疑問を持ちつつも、素子は現実(といっても架空の世界だが)の中では自己実現をはたしている。彼女は強く美しく、使命のためなら人を殺すライセンスさえも与えられている。上司たる荒巻部長の前でも、ひるむことなく自己主張し、自分の信じる方法を貫き通す。素子にとって他者はいないも同然であり、彼女のアイデンティティは失われていないように見える。しかしそれなのに彼女は、自分の存在そのものについて、まるでベケットのように、考え続けているのである。
素子は英語で書けば device だが、もうひとつ circuit element という言葉でも表現される。彼女の名前そのものが物質の最小構成要素であることを暗示している。素子は脳だけが人間である。では脳さえ人間ならサイボーグは人間と同じなのか。「我思うゆえに我あり」の我とは何か。脳なのか、脳ではないのか。素子が悩み続けるのは、このことである。

素子が問いを立てても、それに答える者は公安9課の中には誰もいません。素子に近い存在であるバトーでさえ、「くだらねえ」と言い捨てます
もちろん、素子を否定しているわけでもなく、拒絶しているわけでもなく、自己同一性をとことん追求して止まない素子を止められないと理解しつつも、素子がやがて公安9課を去るのではないかという予感を前に自分が何もできないと苛立っているからです
であるからこそ、バトーは人形遣いと素子の接触を危惧するわけです
しかし、いかなる警告を発しようと素子が人形遣いの正体を探ると決めた以上、バトーは素子が人形遣いへダイブするのを止めず協力します
それが自分にできることであり、状況が悪化したら素子の脳核を担いで逃げるのが自分の責務だと心得ているからでしょう。もちろん、素子もバトーがそのように行動すると分かっているからこそ、彼に背中を預けるのです
言葉のやり取りこそ少ないものの、互いの思うところを交差させるドラマになっており、巧みな演出です

(論文13ページ)
素子が人形使いと融合するラストシーンを、スタジオ・ジブリの鈴木敏夫は、「ネットワークとコンピューターが恋をして子供が生まれるなんて、どう考えても遊び以外の何ものでもない (10)」と言ったが、スーザン・J・ネイピアは「人形使いとの最終的な「結婚」は、太陽神・天照大神の天の岩戸を思わせる場面になっている (11)」と記した。周知のように<コリント人への第一の手紙> 13 章のタイトルは、愛である。人間の感情の中で最もうつろいやすく、ゆらぎを持ち、かつ強い力をもつのは愛である。『攻殻機動隊』は、通奏低音にそのことが流れている。人形使いが素子と融合したいと願ったのは、彼女を愛したためであったのかもしれない。
草薙素子はネットの海に生まれた生命体と融合し、よりヴァージョンアップされたようにみえる。自分であることに固執する限り、人間は限られた世界に縛られ続ける。人形使いと融合した素子は、より高い地点へと到達した。それはオリジナルの素子ではないのかもしれない。というより、彼女は個人がもつ他者からの制約から逃れ、広大な世界へむかっていくのだ。『攻殻機動隊』というアニメは、アイデンティティに縛られ続ける人間という存在が、そこから解放される姿を描いた壮大な物語なのである。

「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」が自己同一性という呪縛からの解放を模索するドラマであるなら、続編「イノセンス」は解放された草薙素子と未だ自己同一性に己を縛り付けているバトーのドラマでしょう
前作は監督だけだった押井守は「イノセンス」で脚本も担当しており、台詞を全部引用句で賄おうと考えたと述べています。どこまで本気であったのかは不明ですが、それでも日本の映画作品には例を見ないほど「イノセンス」は引用句が散りばめられており、これがまた議論を招いたところです。「引用句だらけ=借り物の台詞ばかりで意味が分からない」との批判がありました
どのようなテクストにもそれに先行するテクストがあり、その影響を受けていると考えるのが構造主義における間テクスト性の概念です
ここで言うところのテクストを引用句と置き換えれば、「イノセンス」の中に散りばめられた数々の引用句は先行するテクストが存在しているのであり、その先行するテクスト(聖書、ブッダの言葉、その他)の有する物語を引き込んでいるのだと考えられるわけです
もちろん、この試みが成功したか否かは視聴者の反応しだいであり、一概には決められません
「イノセンス」の場合、押井監督の描いた絵コンテに演出の意図を書き加えた「『イノセンス』METHODS押井守演出ノート」が刊行されていますので、それを読みつつ映像を見れば、ドラマ作りや絵の見せ方といったテクニックをより理解できます
ただ、最近の若い映画監督は撮影前に絵コンテを作ったりはしないようで、撮影現場で感性に任せてカメラワークを決め撮る方法が流行りのようです
もちろん映画作りやドラマ作りに正しい方法などないのであり、個々が模索するべきでしょうが
「イノセンス」の中で用いられている引用句については解説したページがありますので、関心のある方は利用してください

映画「イノセンス」全引用句まとめ

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