「海辺のカフカ」 迷宮としての物語

村上春樹の小説「海辺のカフカ」について幾度か取り上げています。が、語り尽くしたという気がしません
何度言及しようと、語り尽くせない不思議な小説です
今日は漠然と「海辺のカフカ」と三島由紀夫の「午後の曳航」について考えていました。少年の暴虐性を描いた作品としては共通した部分がある作品です。いずれは「午後の曳航」と「海辺のカフカ」について論じるつもりです
さて、今回は「海辺のカフカ」における迷宮について取り上げます
札幌大学研究紀要に掲載された小島基洋札幌大学講師と青柳慎平(大学生)両氏による論文から引用させてもらいます。この論文は青柳氏の卒業論文に小島講師が加筆して出来上がったもの、とされます

「海辺のカフカ」論--迷宮のカフカ

迷宮については作品の中で以下のように説明されています
最初から突っかかるような言い方になって恐縮ですが、作品の中で説明される迷宮の概念に自分は賛同できないのです。以下、「海辺のカフカ」からの引用です(紫色は原作からの引用、赤色は論文からの引用になります)

「この僕らの住んでいる世界には、いつもとなり合わせに別の世界がある。君はある程度までそこに足を踏み入れることができる。そこから無事に帰ってくることもできる。注意さえすればね。でもある地点をこえてしまうと、そこから二度と出てこられなくなる。帰り道がわからなくなってしまう。迷宮だ。迷宮というのはそもそもどこから発想されたものか知っているかい?」
僕は首を振る。
「迷宮という概念を最初につくりだしたのは、今わかっているかぎりでは、古代メソポタミアの人々だ。彼らは動物の腸をーあるいはおそらく説きには人間の腸を引きずりだして、そのかたちで運命を占った。そしてその複雑なかたちを称賛した。だから迷宮のかたちの基本は腸なんだ。つまり迷宮というものの原理は君自身の内側にある。そしてそれは君の外側にある迷宮性と呼応している」
「メタファー」と僕は言う。
「そうだ。相互メタファー。君の外にあるものは、君の内にあるものの投影であり、君の内にあるものは、君の外にあるものの投影だ。だからしばしば君は、君の外にある迷宮に足を踏み入れることによって、君自身の内にセットされた迷宮に足を踏み入れることになる。それは多くの場合とても危険なことだ」

迷宮が生き物の腸をモデルにしている説は大いに疑問です。腸はその実物のように入り口があって出口があり、迷う要素は皆無の一本道の器官です。うねうねとはしていますが、長いだけの極めて単純な構造です。なので腸がすなわち迷宮の原型であると言われても、賛成できません
なので、大島さんのこの拙い説明を受け入れるカフカ少年もどうかしているのでは、と思ってしまいます
上記の小島・青柳論文でもそこには突っ込まず、「迷宮とはそういうもの」として扱っているのがさらに不思議です
カフカ少年の父親はは彫刻家であり、「迷宮」と題する作品群を制作していると知られた人物です
なので、小島・青柳論文ではカフカ少年の内にも外にも、迷宮という仕掛けが施されていると指摘します

(論文7ページ)
田村浩一は、少年の父親であると同時に、「迷宮」という形態を用いて人間の潜在意識を具現化する彫刻家でもある。彼は、息子であるカフカ少年の内に、ひとつの「迷宮」をセットした。まるで少年が「ひとつの作品」であるかのように。それが「お前はいつかその手で父親を殺し、母と姉と交わる」という「呪い」だ。つまりその「呪い」こそが、少年の「内にセットされた迷宮」なのだ。

この「海辺のカフカ」という小説自体が迷宮であると思うのですが、ただそう指摘したところで何かが明らかになったりはしません
要は迷宮に立ち入り、そこから帰還する物語であり、迷宮からの帰還はカフカ少年の成長を裏付けるもの…というのが従来の成長小説のセオリーです。四国の森を出たカフカ少年は東京へ戻る決意をし、新幹線に乗るところで小説は終わるのですが、それが成長を裏付けているのかどうか明確な記述はありません
ただ、読者は過去に読んだ少年の成長小説を当てはめ、カフカ少年の成長を確認した気になっているだけであるのかもしれません
ただ、別パートであるナカタさんと星野くんの物語では、ゲートをくぐって現世に顕現しようとした「悪いもの」を退治していますので、カフカ少年の身におぞましい未来が巡ってくることはない、と読者は感じる仕掛けになっています

(論文11ページ)
高松の甲村図書館を後にする少年に、大島さんはこんな言葉をかける、「世界はメタファーだ、田村カフカくん」。この言葉は、数頁後に迫った『海辺のカフカ』最終場面を解読する鍵だ。新幹線の車内で目を閉じるカフカ少年の心に、カラスと呼ばれる少年が話しかける。
「眠ったほうがいい」とカラスと呼ばれる少年言う。「目が覚めたとき、君は新しい世界の一部になっている」

さて、この小島・青柳論文で不満なのは(いちゃもんばかりつけて申し訳ない)、大島さんの存在、役割をスルーしているところです
大島さんこそ迷宮の先導者であり、案内人という役割を担っているのであり、大島さんの助言や手助け(森の小屋に匿う)がなければ物語は成立しません。大島さんの存在を真正面から問うてみてもよいのではないか、という気がします
ある意味、大島さんは作者である村上春樹の化身なのでしょう
であるからなのか、カフカ少年があまりに素直に大島さんの助言や指示を受け入れてしまうところが、「海辺のカフカ」を読んでいて物足りなく感じるところです
生意気盛な思春期のカフカ少年ですから、大島さんに反発したり、その親切すぎるところを疑ってみたり、大島さんに変態的性愛関係に引き込まれるのではないかと勘ぐってみたりなどの行動があってもよいのではないか、と思います
そうしなかった理由として推測するなら、村上春樹が大島さんをあくまでも迷宮の案内人と設定していたから、という平凡な答えしか浮かびません。甲村図書館での人間関係ではカフカ少年の母親かもしれない佐伯さんこそが重要な人物であり、大島さんは脇役と位置づけられるのでしょう
ちなみに今回、この小島・青柳論文を取り上げたのは枠外の注(10ページから11ページ)に書き込まれている、「小森は『海辺のカフカ』の読者の多くが〈救い〉や〈救済〉そして〈癒し〉を感じていることを指摘し、それに『強い危惧』を抱くことから論を始めている。ちなみに小森によれば、本作は、昭和天皇の戦争責任、従軍慰安婦問題、9・11以降のブッシュ政権によるイラクへの攻撃などを〈解離〉によってなかったことにしている物語だということになる。それに対して、柴田は小森の曲解を批判し、本作の父親殺しの主題に〈天皇殺し〉を読み込むことで、むしろ小森の問題意識が村上によって共有されているとする。両者の確信犯的な深読みは実にスリリングである」の記述が目に止まったからです
小森とは「村上春樹論『海辺のカフカ』を精読する」(平凡社)を書いた小森陽一を指します
以前にも取り上げたのですが、小森の村上春樹論(「海辺のカフカ」論)はまったくの愚論・珍論の類であり、深読みというより完全な読み誤りと自分は感じます
「近親相姦を描くのは不道徳だ」などと説教を垂れている内容で、壁に叩きつけたくなる一冊です
そして上記のように「小森の問題意識が村上によって共有されている」とは、自分は感じません、どこをどう読んだらそんな解釈が飛び出してくるのか、実に不思議です。村上春樹は天皇の戦争責任を問うため、「海辺のカフカ」を書いたなどと言えるのでしょうか?

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