村上春樹「踊る小人」と南米文学の影響

広島大学の研究紀要に収められた山根由美恵山口大学教育学部准教授の論文「村上春樹『踊る小人』論ーボルヘスの影」を読んで、思うところを書き述べます。先日、ダルミ・カタリン女史の論文「村上春樹と魔術的リアリズム : 『踊る小人』に見る一九八〇年代」を読んで感じたところと重なる部分もありますので、そちらも併せて目を通していただければ幸いです

山根由美恵の「村上春樹『踊る小人』論ーボルヘスの影」

論文の前半は村上春樹作品と南米文学(ルイス・ボルヘス、ガルシア・マルケスなど)の影響を説明する内容です。これはこれで参考になります
中盤では「踊る小人」に先行する文学作品としての、ボルヘスの「夢」を題材とした作品に触れています
そして先日取り上げたダルミ・カタリン女史の論文で指摘するところの、「踊る小人」に登場する小人を「自我を乗っ取る悪霊的存在」と書いているのが、山根論文の10ページ目です

(論文10ページ)
中村氏が指摘するように、「踊る小人」は、先行作の「羊をめぐる冒険」からのテーマ、自我を乗っ取る悪霊的存在が物語の核である。小人のちからは、「小人の踊りは観客の心の中にある普段使われていなくて、そんなものがあることを本人さえ気づかなかったような感情を白日のもとにーまるで魚のはらわたを抜くみたいにーひっぱり出すことができたのだ」、「小人はその頃から踊り方ひとつで人々の感情を自由にあやつるやり方を身につけることになった」と描かれている。
(略:「羊をめぐる冒険」の展開との比較)
同じ自我を乗っ取る悪霊的な存在の物語であるが、欲望を抑えた場合と抑えなかった場合という展開が異なっている。「踊る小人」は自我を乗っ取る悪霊が消滅しなかった場合の結末が追求されており、破滅が用意される必然はここにある。

山根論文はあくまで、小人=悪霊的存在、という設定の上で語っているようにも読めますが、山根論文は引き続いて村上春樹の「アンダーグラウンド」のあとがきを引用しています。そこで村上春樹はオウム真理教の麻原彰晃を例に挙げ、「オウム真理教に帰依した人々の多くは、麻原が授与する「自律的パワープロセス」を獲得するために、自我という貴重な個人資産を麻原彰晃という『精神銀行』の貸し金庫に鍵ごと預けてしまっているように見える。忠実な信者たちは進んで自由を捨て、財産を捨て、家族を捨て、世俗的価値判断基準(常識)を捨てる。まともな市民なら『何を馬鹿なことを』とあきれるだろう。でも逆に、それは彼らにとってある意味ではきわめて心地の良いことなのだ。何故なら一度誰かに預けてさえしまえば、そのあとは自分でいちいち苦労して考えて、自我をコントロールする必要がないからだ」と書いています
つまり、山根論文も『踊る小人」を社会的現実に還元して考える姿勢を有しているのであり、小人を悪霊として片付けてしまっているわけではないと分かります
自我を乗っ取り、体を乗っ取る悪霊的存在を社会主義と読み変えるのもありでしょうし、新興宗教と読み換えて解釈することも可能です

(論文12ページ)
「踊る小人」はボルヘスの世界を超えるようなインパクトのある世界とは言い難い。しかし、このメタ化された世界の中でどう生きるかといったテーマは、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」で深化し、主人公は作り上げられた世界の中で主体的に生きることを決意するといった、ボルヘスの世界とは違った世界が描かれている。また、自我を譲り渡すことの危険性は「ねじまき鳥クロニクル」、「アンダーグラウンド」、「1Q84」で触れられ、システムの危険性に警鐘を鳴らしている。特に「1Q84」では邪悪な力を持つものとして「リトル・ピープル」という存在が物語を大きく動かしており、「踊る小人」のテーマは現在においても村上文学の重要な柱であることがわかる。

村上春樹は「踊る小人」でボルヘス的技法を踏まえつつも、ボルヘスとは異なる物語を描こうとしており、その営為がいまだ継続されているというのが、山根論文の主張であろうと解釈すます

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栗原心愛ちゃん殺害事件を考える 虐待は経済格差のせい?

「週刊女性」に栗原心愛ちゃん殺害事件で有罪判決を受けた栗原勇一郎被告を取り上げた記事が掲載されていますので、言及します
記事を書いているのは阿部恭子という、犯罪加害者家族をサポートするNPOの代表者です。が、事件の捉え方がどうにも偏っており、納得できない内容です
栗原被告が繰り返した虐待を個人の資質、性格によるものではなく、なぜか経済格差のせいだと断定する考えを示しています
裁判で栗原被告は虐待の事実を全面的に否認していますし、経済格差が原因だとも口にしていません。つまり、現実を頑なに否定し、自身の主張を正しいと強弁する性格の顕著な歪みが明らかなのです。なぜ、阿部恭子は栗原被告の歪みを問題視しないのか、不思議でなりません

野田市小4虐待死事件から2年ーー孫を息子に殺された「祖母」の胸中と、虐待の背景
(前略)
筆者は昨年開かれた裁判員裁判をすべて傍聴していた。注目した点のひとつは、勇一郎被告が育った家庭環境と自ら子育てをしていた家庭環境のギャップである。被告は両親から暴力を受けたことはなく、経済的にもゆとりのある家庭で育っている。ところが事件前の被告は、あらゆる面で余裕のない生活を送っていた。
被告は非正規雇用で、家族4人の生活は、親による経済的援助によって成り立っていた。妻は病気で養育ができず、被告は生まれたばかりの子どもの面倒を見ており数時間の睡眠で仕事に行く日々が続いていた。借金もあり、経済的、精神的に追いつめられていたころ、インフルエンザにかかり自宅待機を余儀なくされる。そして、完全に社会との関わりが閉ざされた家庭内で暴力は激化し、最悪の結末を迎えている。
せめて経済的に安定した生活を送ることができていれば、これほど悲惨な事件は起こらなかったと思われる。

記事は唐突に「余裕のない生活が理性を奪う」との見出しがついて、NPOに寄せられた相談のケースを開陳します。非正規雇用で経済的ゆとりのない男性がこどもへの虐待を繰り返したと述べ、栗原被告も同じだと言いたいのでしょう。ですが、達也(仮名)のケースは栗原被告の事件とは別物であり、安易に同一視するのは事件を読み誤るだけです。公判を傍聴して何を見聞していたのか、と言いたくなります。最初から経済格差こそが問題の根源であると決めつけていたのでは?
最初に述べたように栗原被告の資質や性格を論じないまま経済格差のせいで虐待が行われた、と断定するのは無茶な論理です

筆者は、近年の虐待事件では、虐待の世代間連鎖ではなく、むしろ育った環境とのギャップが加害を生んでいるケースが増えていると感じる。就職氷河期世代で非正規雇用で働く人々は、親の年収ほど稼ぐことができない人も多いはずだ。家庭を持つこと諦める人がいる一方で、家庭を持ったとしても、自分が与えられてきたような家庭環境を家族に与えることができない。
こうした経済状況に加え、男尊女卑思想が根強かった時代である。稼いで妻子を養うことが男の義務だと考えてきた男性にとっては、安定した収入が得られない状況に劣等感や屈辱感を感じる人も少なくないであろう。失業したり収入が減ることで、家庭での男性の優位性が損なわれたと感じた時に暴力が用いられている。家庭を伝統的な家族のスタイルに強制しようとする過程でDVや虐待が行われるのだ。
加害者が囚われている価値観から解放され、傷が癒されない限り加害は繰り返され、さらに弱い立場の人々が犠牲になる。子どもの保護を第一として経済格差の是正や労働環境の改善が事件を減らしていくことに繋がる。

反論しますと、経済格差が解消されても栗原被告は虐待を繰り返したはずです。それは娘への虐待が栗原被告にとってたまらないほど性的快楽をもらたしたからです
経済的な余裕があっても性犯罪を繰り返す人間はこの社会に一定する存在するわけであり、経済格差解消が性犯罪を減少に必ず結びつくというものではありません
筆者は問題の根幹を読み誤っているのです

懲役16年の実刑判決を不服とした栗原被告の控訴審は結審しており、判決は3月4日に言い渡されます
控訴審は初公判で即日結審しており、栗原被告の弁護人は新たな証拠や証言を提出したわけではありません。これでは1審の判断をひっくり返すのは無理でしょう
最後に、「二度と同じ悲劇を生まないために」と書くのは止めた方がよいと自分はいつも思います。交通事故の被害者家族が心情として「二度と同じ悲劇を生まないために」と発言するのは理解できるところですが、残念ながら交通事故は数多く発生しますし、こどもへの虐待も同じです。ですから「二度と・・・」ではなく、「少しでも1件でもこどもへの虐待事件を減らすために」を心がけたいと思います。このブログが役に立っているかどうかはともかく、そんな思いで書いています

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