「風の歌を聴け」 デレク・ハートフィールド考

前回は加藤典洋編「村上春樹イエローページ」(荒地出版)に掲載された論評を手がかりに、「一九七三年のピンボール」について書きました
今回は「風の歌を聴け」を取り上げます。とある音楽評論家が「作曲家のデビュー作というのは荒削りではありけれど、その作曲家の最良の部分がつまっている」と述べたように、村上春樹の初期作品はどれも色褪せない魅力があります
当ブログの2021年1月2日付け記事、「『風の歌を聴け』 デレク・ハートフィールド讃」で架空の作家デレク・ハートフィールドに言及したところですが、今一度この架空の作家と作品について考察を試みます
いつものように手がかりとして、山愛美京都学園大学人文学部教授の論文「村上春樹の創作過程についての覚書( 3 ) デレク・ハートフィールドを巡る在と不在のテーマ」から引用させていただきます

村上春樹の創作過程についての覚書( 3 ) デレク・ハートフィールドを巡る在と不在のテーマ

(論文2ページ)
確かに、ハートフフィールドという人物は実在しない。それは事実である。しかし、「僕」を通して語られるハートフィールドの逸話や、彼が残したという意味深い言葉、また彼が書いたという短編「火星の井戸」は存在する。そうであるならば、それらはいったい誰の逸話であり、誰の言葉であり、誰の短編なのだろうか、という疑問が涌き上って来る。
「ハートフィールド」が具体的な人物ではないだけに、かえって強烈な存在感を持って我々読者の中に存在し続ける、という逆説がそこにはある。逸話も言葉も短編も、実在しないハートフィールドから生まれたものであることによって、よりリアリティを持つ。
村上は、ハートフィールドを通して真実を語っている。エルサレム賞受賞の際の挨拶の冒頭で村上は、「一人の小説家として、ここエルサレム市にやって参りました。言い換えるなら、上手な噓をつくものとして、ということでもあります」と述べている。

エルサレム賞挨拶に含まれる「嘘」とはフィクション、そして虚構という意味でもあるのでしょう
虚構の作家デレク・ハートフィールドはとりわけ印象深いキャラクターです。幾人かの作家のプロフィールを混ぜ合わせた設定なのですが、あたかも実在した人物であるかのように丁寧に(ギミック満載で)紹介されており、村上春樹がかなり入念に設定したとうかがわれます
「ハートフィールド讃」で自分は、「ただ、わざわざ架空の人物まで作り出し、『文章を武器として闘うことのできる作家』とのイメージを提起し称賛しているのですから、何らかの思い入れがあったのでしょう。加えて、その行為を不毛であると断じているのは、文章で闘うことの意味に何らかの懐疑を抱いていた可能性が考えられます(例えば、作家が個人的に闘いを挑んだところで、社会は何も変わらないとの諦観)」と書きました
作家として世に出ようとした当時の覚悟がいかばかりのものであったのか、推測するしかありません。が、デビュー時の長編3部作を読む限り、文章を武器に戦いを挑む気概は控え目なものであり、「小説を書いて世界革命を実現させよう」といった野心はおそらくなかったのでは?
当然、作家という職業で食べていけるかどうかもわからなかったのですから、当然かもしれません

(論文3ページ)
噓は、時として、本人の意図を超えて真実を語ることがある。なぜなら噓と真は、別々の対立物ではなく、表裏一体なのだから。注意していれば、日常の中でも、何気なく言ったつもりのちょっとした噓や、ふと思い付いたことが、後になって重い意味を持つことがあるのに気付くことがある。村上自身、時間を経るにつれて、自分自身の中の「遊び心」の自発性に任せて捏ち上げて書いた、デレク・ハートフィールドの持つ意味を、より実感を持って自覚し始めていたのかもしれない。
村上の物語には、失踪、死、などさまざまな種類の喪失が多く描かれている。上記の「文學界」のインタビュー(「物語のための冒険」)で、聞き手の文芸評論家の川本三郎に、「風の歌を聴け」では多くの人が亡くなっているという指摘を受けて、「(僕は)失われたものに対する共感=シンパシーは非常に強い。…この現実の状況というのは、僕にとっては仮のものなんです。絶対的な状況じゃない。今の状況とネガとポジの関係になった逆の状況が存在してもおかしくはないということです(村上、1985)と述べている。また、「僕の物の見方とか捉え方の基本にはいつも〈在〉と〈不在〉を対照させていくようなところがあって、それが並列的に並んだパラレル・ワールドにむすびついていく傾向がある…つまり〈存在〉の物語と同時に〈不在〉の物語が進行して行く…」(村上、1985)と述べているように、村上にとって、「在・不在」は中核的なテーマの一つである。
「不在」でありながら「在」である。いや、むしろ「不在」であることで、より「在」が際立つ、ハートフィールドは、通常の二律背反的な発想
を超えた存在であり、身を以て、在・不在を巡る問題の本質を体現している、と筆者は考える。

先日当ブログで書いた「村上春樹『一九七三年のピンボール』 不在という存在」の中で、「追い求めた結果は何モノかを手に入れたのではなく、喪失を、不存在を確認したというわけであり、不在の存在を受け入れて物語は終わるのです」と記しました
存在・不在と書いてしまうと単純な二元論であるかのように解釈されてしまうきらいがあります(過去に、村上春樹の小説をそうした単純な二元論になぞらえ、「OFF」でバチンと電気が切れ何も存在しない=終わりという感覚が現代の若者に受けたのだろう、という趣旨の評論を読んだ経験があります。が、これは読み誤りでしょう)
村上春樹の存在・不在はONかOFFかのような単純な二元論ではなく、不在の中に存在を取り込んでいるもの、あるいは存在の中に不在を取り込んだ形で表現されます

(論文13ページ)
風の歌を聴け」より「火星の井戸」からの引用
「あと25万年で太陽は爆発するよ。パチン…OFF さ。25万年。たいした時間じゃないがね」
風が彼に向かってそう囁いた。
「私のことは気にしなくていい。ただの風さ。もし君がそう呼びたければ火星人と呼んでもいい。悪い響きじゃないよ。もっとも、言葉なんて私には意味はないがね」
「でもしゃべってる」
「私が逢しゃべってるのは君さ。私は君の心にヒントを与えているだけだよ」
「太陽はどうしたんだ、一体」
「年老いたんだ。死にかけてる。私にも君にもどうしようもないさ」

小説のタイトルが「風の歌を聴け」ですから、この「火星の井戸」に登場する風=火星人も「風」というシニフィアンに含まれます
つまり「風の歌を聴け」という作品を形成する上で、「火星の井戸」は不可欠なものであり、その書き手とされるデレク・ハートフィルドも欠かせない存在です。村上春樹が当時、ハートフィールドにどれだけの理想、憧れ、目標を託して想像したのかは分からないままなのですが、作家となった村上春樹が長い年月を経て「言葉を武器に闘う」決意を固めるに至ったのは確かでしょう
その意味では、デビュー作が連綿と今の村上春樹とのつながりを保っているのであり、このデビュー作が価値を失わずに存在し続けているといえます
以前、「風の歌を聴け」が芥川賞を受賞できなかった原因、理由を考えようとして当時の選評を掘り返しブログに書きました
複数の候補作品に言及する必要があるため、「風の歌を聴け」のために割ける字数も限られていたわけですが、それでもこの複雑にして巧妙に構成された小説の価値に気づいたと推測できる選評はなかったとように思います
当時の選者の見識を疑っても仕方がないわけで、批判はしません。落選にもめげず、次の作品(「一九七三年のピンボール」)を書き、これもまた芥川賞を逃してしまうのですが、作家としての地位を手にしたのですから、当時の村上春樹も言葉を武器に十分闘い続けたと認めてよいのかもしれません(「デビュー時は言葉を武器に戦う覚悟が希薄だった」と先に書いたのですが、訂正しましょう)

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