「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」 シンジとゲンドウの和解

「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」の公開にかこつけ、連日「エヴァンゲリオン」シリーズについて語っています
今回は文春オンラインに掲載されたアニメーション評論家藤津亮太の記事を取り上げます
主題はシンジとゲンドウの和解は成立するのか、というものです
劇場版をまだ観ていませんので、作品の中でシンジとゲンドウの関係がどう描かれているのか分かりません。が、分からないなりに検討し、心理臨床の場として和解が可能かどうかを思索を試みます

3回目の結末を迎えた『エヴァンゲリオン』 今だからこそ描かれた「描きたいもの」と「描かなくてはならないもの」
「こうなるしかない」かたち
では『シン・エヴァ』の人類補完計画では何が描かれたのか。それはシンジとゲンドウの直接対決である。そもそも『新世紀エヴァンゲリオン』はゲンドウがシンジを一方的にエヴァンゲリオンのパイロットにしたことが全ての始まり。しかしテレビシリーズもその劇場版も、そこを正面から扱うことはなかった。だからシンジとゲンドウの対決は、四半世紀を経て初めて正面から「描かれるべき部分が描かれた」ということができる。
とはいえその内容は決して驚くようなものではない。むしろ「こうなるしかない」と納得できる、とても自然なものだった。例えば、ゲンドウが人類補完計画を進める理由も、これまで描かれた通りだし、シンジとの関係についても、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』でゲンドウが今際の際に語り、ユイに「シンジが怖かったのね」と評された通りだ。
ただ、重要なのは『シン・エヴァ』では、この自分の弱さをゲンドウが、シンジに対して語るところにあると思う。しかも情けないほど感情を露わにして。そこに2人が直接対決した意味がある。そして現実世界で成長したシンジだからこそ、弱さを吐露するゲンドウの姿も受け入れることができた。こうして過去の2つのラストを包含しつつ、登場人物たちの物語に決着をつけて『エヴァンゲリオン』は三度目の結末を迎えたのである。

一般論化するのが妥当であるかはともかく、ゲンドウを仕事にのめり込んで家庭を顧みない父親(そのくせ、愛人を作っていたりする)と見なして考えれば、息子であるシンジが父親に不信感を抱き尊敬もせず、「こんな大人にだけはなりたくない」と思うのは当然でしょう
さて、そんな父と息子の間で和解は成立するのでしょうか?
端的に言って「無理」だと考えます
もちろん、表面上の和解は可能でしょう。シンジが少しばかり大人になり、ゲンドウのずるさや身勝手をある程度許容できるだけの社会性を身につけられたのであれば
しかし、長い歳月をかけてこじれにこじれた親子関係を修復し、和解に持ち込むには時間もかかりますし、父親にも息子にも価値観や人生観の変容が求められます
世の中に断絶した親子がいかに多いかを思い起こせば、和解など奇跡のようなものといえます
ただし、そうではあってもエヴァンゲリオンの物語を完結させるためには、シンジとゲンドウが直接対峙し、そこで何かを語り合う場面が必要だったと推測します

「現在」に縛られながら作られてきた『エヴァンゲリオン』
『シン・エヴァ』は「描きたいもの(スペクタル)」と「描かなくてはならないもの(ドラマ)」が、どちらかがどちらかのためにあるという関係ではなく、融合というよりは、それぞれのまま2つの柱として屹立している作品なのだと思う。そこに最大の特徴がある。その点で世間が思う“映画”とは似て非なる形をしており、唯一といっていい(『:序』『:破』『:Q』とも異なる)作品として出来上がっている。観客が感じた圧倒的な体験は、この2つの太い柱の中で、自らの感性が激しく揺り動かされるところから生まれたものなのだろう。
さて黒沢は件の文章の終盤に、こんなことを書いている。“映画”という表現がなにかを問うてしまうのは、そこに「不変」を映画を成立させるよすがにしようという考えがあるからだ、と黒沢は指摘するのだ。
「つまるところ不変という名の甘美な幻想にあると思う。もし十年先の人がこの作品を見たとしたら、とか、これが仮に七〇年代活劇だったとしたら、とか想定して映画を作ることなどはできはしない。映画製作とはうんざりするほど現在に縛られた、本当は不変とは縁もゆかりもない営みだ。『いかがわしさ』も『出鱈目さ』も全てそこに起因している。ではテレビジョンとどこか違うのだ、と問われれば、私はあえて『違いはない』と答えるだろう。それでいい」
『エヴァンゲリオン』もまた、「現在」に縛られながら、その時と場所に適合した作品のあり方を探り、それぞれ3回の結論を出してきた作品といえるのではないだろうか。そしてそこに、ある種の「いかがわしさ」も「出鱈目さ」もまた生じていた。そして、それは今回の『シン・エヴァ』も例外ではない。
不変を夢見るのではなく、現在に縛られながら生み出されていく様々な作品たち。それは『シン・エヴァ』作中でもいわれた「明日生きていくことだけ考えよう」という、現在と未来を孕んだ言葉と、深いところで響き合っているように思う。

文中にある「現在に縛られながら」との表現を翻案すると、「時代の空気に影響を受けて」という意味合いだろうと考えます
25年前と現在とで、社会状況がどう異なっているのかは、当ブログで取り上げた「エヴァンゲリオン」の論評・論文でそれぞれ触れているところであり、当然ながらそうした影響はあるのでしょう
ただし、あまり過大に「時代の空気に影響を受けている」と決めつけるのはどうか、という気もします
25年前のTVシリーズを観る上で当時の社会情勢を頭に入れておく必要はないのでしょうし、現在公開中の劇場版を観るについても、コロナ蔓延の社会情勢だの閉塞感を頭に置いてスクリーンと向かい合う必要はないはずです
それこそが「映画が時代を超える」ことであり、映画によって「甘美な幻想に浸る」のが可能になるのでは?
つまり、「観る側も作る側も時代に縛られてはいけない」と考えます
そして「甘美な幻想」を提供するという目的のためなら、シンジとゲンドウの和解を描くのもありでしょう
さて、話をシンジとゲンドウの親子に戻すのですが、親子間の葛藤は延々と繰り返されてきた問題であり、基本はそのまま(オイディプス王の物語のように)でしょう
なので、今現在、親子の関係が過去(25年前)と比べて変化したとはいえません
そして碇シンジは設定上14歳から15歳になる年齢であり、シンジが急速に大人びて物分りのよい人物となり、清濁併せ呑む度量を備えるにいたる可能性は皆無です
まだまだ父親に反抗したがる年齢である以上、やはりゲンドウとの和解は実現不可能と結論付けるしかありません

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