村上春樹とレイモンド・カーヴァー 救済の不在

加藤典洋著「村上春樹論集②」(若草書房刊)に収録されている「異質な眠りの感触」を取り上げます
赤文字は加藤典洋の論評からの引用、紫文字は村上春樹の著作からの引用、黒文字は自分の文です
この加藤典洋の論評「異質な眠りの感触」は村上春樹の短編小説「眠り」を取り上げたものですが、自分の興味はそこではなく、以下の部分にあります

(22ページ)
村上の翻訳したレイモンド・カーヴァーの作品に、「ささやかだけど、役に立つこと」という不思議な読後感を残す短編がある。
(以下、「ささやかだけど、役に立つこと」の要約が書かれていますので、これをさらに要約します。8歳のこどもが交通事故に遭って入院した後、たびたび嫌がらせの電話がかかってくる。こどもは病院で亡くなる。後に電話をかけてきたのがこどもの誕生日祝いのケーキを注文したパン屋だと判明する。こどもは誕生日の当日、交通事故に遭ったため、親はケーキを受け取りに行くどころではなくなったのだ。注文のケーキを受け取りに依頼主が現れず、代金をもらえなかったパン屋が嫌がらせのために電話をしていたのだ。こどもの両親はパン屋に苦情を言うため、深夜店へと向かう。パン屋の店内でこどもの両親とパン屋のおやじが向き合い、3人は夜が明けるまで語り合う、という物語です)
この短編集のあとがき「レイモンド・カーヴァーの早すぎた死」の中で、村上は、この短編に触れ、こう書いている。
この短編小説では、
・・・・・・夫婦はパン屋に押しかける。そして彼らは互いの苦しみを夜があけるまで語り合う。そして、彼らはある種の救済へと到達するのだ。もちろんそれは本物の救済ではない。そこではまったく誰も救われはしない。すべては失われ、損なわれてしまっている。子供は死んでいる。ケーキは腐っている。夫婦はうちのめされている。パン屋の人生は破滅している。救済はどこにもない。でもそれはいうなれば救済があるはずの空白なのだ。そこでは救済は「救済の不在」という空白の形をとって姿を表す。つまり不在というかたちをとった存在である。そう、そこには救済があってもよかったのだ。でも実際にはない。しかし、ないにしても、とにかく彼らはそこまでいったのだ。そしてそれはいつか、「ささやかだけれど、役に立つ」かもしれないのだ。それは誰にもわかりはしない。でもやるだけの価値はあるのだ。
(『ささやかだけれど、役に立つこと』中央公論社)

ここから村上春樹の「パン屋再襲撃」を思い起こす人もいるでしょうし、先に当ブログでも取り上げた村上の短編「アイロンある風景」における海浜での焚き火を囲んだ会話を思い起こす人もいるのでしょう。あるいは「ノルウェイの森」をここでいうところの「救済の不在」の物語として解釈する人もいるのでしょう
レイモンド・カーヴァーのテキストを下地に、そのさらなる発展形として物語を構築する村上春樹の手腕に驚くだけでなく、感心もします
『ささやかだけど、役に立つこと』とは、いかにも村上春樹の小説の登場人物が口にしそうな台詞です
ただ、そこには魂の救済はなく、読者が求めるようなカタルシスは与えてはくれません

(24ページ)
カーヴァーはこの小説を、そこに救済がある、というようにも書けた。そこに救済がない、というようにも書けた。小説家はその小説をどのようにも書ける、という意味で。しかし彼はこの小説をそのいずれのようにも書きたくなかった。つまり救済がある、のではない。しかし救済がない、のでもない。そこには(実際にはないのだが)救済があってもよかった。あってもおかしくなかった。その、あってもおかしくない、でもない、ということ。秤りの受け皿の両方で、二つのものがつりあう。その一方をそうっと、極めてそうっと持ち上げると一瞬、何もないのに、空白と一方がつりあう。なぜだろう。一方の実在が、こう思う、そこには自分の対応物はない、でもあってもよかった。そう思う、その一瞬だけ、秤りは動かない。

『ささやかだけれど、役に立つこと』では夜明けまで夫婦とパン屋が語り合いながら最後に、子供の母親は誕生日のあの日に息子が死んだことを告げます。しかし、パン屋の主人は夫婦に対し、お悔やみを申し上げようともせず、自分の八つ当たりで電話をかけ続けた行為を謝罪もせず、のし棒をカウンターに戻し、エプロンを外しててカウンターの上へ投げ、二人を見てゆっくりと首を振り、テーブルの椅子を引く・・・という動作が描かれ、小説の最後には「テーブルの上には書類や領収書や計算機や電話帳なんかか載っていた」で締めくくられるのです
息子の死に打ちのめされた夫婦と、日々の仕事にくたびれたパン屋の主人の何とも言えない姿で幕を閉じるこの短編は示唆に富んでおり、深い余韻を読者に与えます
こどもの死を夫妻から聞かされたパン屋の主人が、型通りのお悔やみの言葉を述べたという終わり方ならば、読者には何の余韻も与えず、記憶にさえ残らない短編小説で終わっていたに違いありません
そして、こうした物語上のテクニックを村上春樹が吸収し、用いていることに感嘆させられるのです
蛇足ですが、火曜サスペンス劇場のようなドラマを思い浮かべてください。刑事によって断崖の上に追い詰められた犯人は、長々と自分が殺人に至った経緯、動機を語ります。しかし、刑事はその動機が犯人の勘違いであり、独りよがりであると指摘し、犯人は愕然として泣き崩れるのです。そうしたドラマの作り方が視聴者にカタルシスを与え、爽やかな余韻や感動を与えるものと信じられ踏襲されているわけです
が、カーヴァーの小説の描き方と比べれば違いは明らかでしょう
かくして火曜サスペンス劇場は凡百の物語として消費され、忘れ去られ、記憶にも残らないわけです

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