村上春樹「一九七三年のピンボール」研究Ⅳ

当ブログの記事、『村上春樹「一九七三年のピンボール」研究Ⅲ』では「僕」と「直子」の関係を考え、思うところを書きました。「僕」と「鼠」との関係は次回に、と書きましたので取り上げます
その前に、「風の歌を聴け」を取り上げた研究のうちいくつかが、「鼠」は「僕」の影であり、2人は同一人物のそれぞれの側面を表したものとする見解を述べていると、以前に当ブログで取り上げたところです。「風の歌を聴け」の設定をそのまま引き継いだ続編、というわけではなく「1973年のピンボール」は独立した作品と読めるので、「1973年のピンボール」においては「僕」と「鼠」は別人との読みの方がすんなりと入り込めるように自分は思います
もし、「風の歌を聴け」に引き続いて「鼠」が「僕」の影であると解釈すると、随分とややこしい話になってしまいます
今回は敢えてこの物語を「僕」と「鼠」と「直子」の三角関係として読もうとする、山根由美子氏の論文を取り上げます。赤字は山根論文。緑色は「1973年のピンボール」の本文からの引用。青字は山根論文の中の他研究からの引用です

村上春樹「1973年のピンボール」ー朧化された三角関係ー

(論文2ページ)
さて、先行研究では、「鼠」の存在を「僕」との関係性にのみ目を向け、「僕」の閉じられた自意識、分身等と捉えていた。
「僕」の話から捨象されている具体的な故郷の「幻想」との葛藤を「鼠」の話が補完し、「鼠」の話に欠けている自身の外部のコードとの関係を凝視し対象化するメタ・レヴェルの私選を「僕」の話が補完する。こういった二つのストーリーがパラレルに進行していく過程でいわば残像現象のように成立し、競争しあって自意識の物語が織り上げられていくことがテクストの戦略として企てられていたのである。すでに述べてきたように「鼠」は、「僕」が幻想を相対化して「出口」に向かう「教訓」を残すため、自滅する用意された犠牲者としての閉じた自意識であった。
そして、「鼠」が「僕」の分身であることは定説となっている。しかし、「1973年のピンボール」における「鼠」という存在には、「僕」の分身という関係に留まらない記述が存する。

青字は今井清人による評論「1973年のピンボールー出口を探しながらー」からの引用です
上記のように研究者の間では定説であると言われても、自分には納得できません。では「鼠」が「僕」の影であるとして、それを「1973年のピンボール」に当てはめるとどうなるのでしょうか?
当然ながら、ストーリーは支離滅裂なものになり、まるで「僕」と「僕と瓜二つでありながら独立した他者であるドッペルゲンガー」の物語になってしまい収拾がつきません
山根論文は上記の定説を排除し、物語を「僕」と「鼠」と「直子」の三人の物語として読み解こうとする試みです

(論文3ページ)
「鼠」は「僕」の分身であるという先入観を排除したとき、右の場面は「僕」の過去と「鼠」の過去がそれぞれ別個のものとして語られているのではなく、「僕と鼠と直子」の物語として語られていることに気づく。「僕」は何度も繰り返し、三年前を強調していた。その同じ三年前に「鼠」にも大事件が起こっていた。「そのいくつかの理由が複雑に絡み合ったままある温度に達した時、音をたててヒューズが飛んだ。そしてあるものは残り、あるものははじき飛ばされ、あるものは死んだ」。三年前「僕」はそのまま残り、「鼠」は大学を辞め、「直子」は死んでいる。
「僕」と同じように「鼠」も三年前から時の流れが断ち切られたように感じたまま1973年現在に至っている。

そのまま解釈すれば、「鼠」が関係している女性は「直子」ではなく、「直子」と「鼠」は接点がないといえます。それを「僕と鼠と直子」の物語だとの仮説を提示する根拠は何か?
先へと読み勧めましょう

(論文4ページ)
二 「僕と鼠と直子」の物語
「僕と鼠と直子」の物語という仮説を、「僕」の友人の不在、「鼠」とピンボールとの関係、「僕」と「鼠」の対女性意識の三点から検証していきたい。
「僕」は直子が死んでから孤独な季節を送る。この孤独には友人の不在が強調されている。
(「1973年のピンボール」本文からの引用あり。省略します)
「僕」はなぜここまで周囲との孤立、友人の不在を強調するのか。この友人の不在は恋人に死なれた男の状況としては不自然すぎるほどの強調がんされている。恋人が死んだからといって、友人を遠ざける必要はない。

山根論文では「僕」の孤立は道徳的な問題があった=「直子」の死には不道徳な何かがあったがゆえ、友人たちも「僕」を避けるようになった、と推論しています
ですが、「僕」が大学に入り、同じ専攻の学生たちと大いに交わり、飲み会に参加し、サークル活動にも精を出して…というイメージは湧かないのであり、「僕」はもともと孤独で人見知りが激しく、友人のいないタイプの学生、というのが自分の抱く人物像です
山根論文はこの先、「僕と鼠と直子」は三年前に三角関係にあり、「鼠」の交際相手である「直子」を「僕」が奪ったという解釈を提示します

(論文6ページ)
「鼠」に関して、女性を愛することへの恐怖を持つ直接の原因はテクストに具体的に示されていない。しかし、先に引用した三角関係の暗喩「あるものは残り、あるものははじき飛ばされ、あるものは死んだ」に続いて、「鼠」が過去の事件の苦悩を忘れる努力をしている場面がある。
もう三年も前のことになる。
時の流れとともに全ては通り過ぎていった。それは殆ど信じ難いほどの速さだった。そして一時期は彼の中に激しく息づいていた幾つかの感情も急激に色あせ、意味のない古い夢のようなものへとその形を変えていった。
時折、幾つかの小さな感情の波が思い出したように彼の心に打ち寄せた。そんな時には鼠は目を閉じ、心をしっかり閉ざし、波が去るのをじっと待った。
三角関係が提示された場面に続くこの「鼠」の苦悩と女性に対する恐怖とには看過できない繋がりが見える。つまり、三年前に起きた三角関係によってこの苦悩が生まれているからである。(中略)
これら、友人の不在、同じピンボールに夢中になったこと、女性を愛することの恐怖から、次のようなことが考えられるのではないか。つまり、「僕」が友人の「鼠」から「直子」を奪い去り、それが原因で「直子」が死んでしまったということがある。そしてそれ故、「僕」が頑なに友人をを拒み、周囲からも拒まれる。(中略)結果として、二人は愛する女性をしなせてしまい、女性を愛することへの恐怖を持つ。ここには三角関係という構図が成立するのである。

山根論文はここから、「ノルウェイの森」や「蛍」、「納屋を焼く」など各作品に描かれた「僕」と「直子」と「キズキ」あるいは他の人物との三角関係を列挙し、検討しています
その上で、「1973年のピンボール」が村上作品の中では失敗作との評価しか受けていないのは大間違いであり、「ノルウェイの森」や「世界の終わりとハードボイル・ワンダーランド」へと繋がる重要な作品であると結論付けています
紹介してきた山根論文は、後に続く作品から(そこに登場する三角関係を踏まえて)前の作品を読み返し、読み解くというのは掟破りな試みとの感がありますが、しかし、こうした読みが特段禁じられているわけではありません
大胆な解釈によって、物語の背景にある脈絡を浮かび上がらせ、より統合的な村上春樹作品論を打ち出す契機になる得るのでしょう
ただ、あちこちに自分が異論を挟んだように、「1973年のピンボール」に登場する「僕」や「鼠」や「直子」が、山根説の三角関係に収まるとは思えないのであり、「直子」が「鼠」の元カノという解釈には賛同できません
「ノルウェイの森」に登場する「直子」の元カレ「キズキ」は、明らかに「鼠」とは異なる人物像であり、同一視はできませんし、する必要もないでしょう
村上作品の関係性、継続性はあるにしても、やはりそれぞれが独立した物語として自分は読んで楽しみたい、というのが結論です

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三重いじめ自殺 上級生ら4人を提訴

いじめによって自殺に追い込まれる小学生から中学生、高校生があとを絶たないのであり、報道に接するたびに歯がゆい思いがします
学校側が見て見ぬふりをしたり、中には教員自身がいじめの片棒を担いでいたり
そして生徒が自殺した後は、何も調査をしないうちにメディアに対して「いじめが原因ではない」、「いじめはなかった」と学校側が断言するというのが毎度のパターンです。遺族の申し立てによって第三者委員会が設置され、調査を行いますが、これはあくまで任意によるものですから強制力はなく、事情聴取に応じない教師や生徒も出てきます
三重県で起きた高校1年生の男子生徒の自殺でも、第三者委員会による調査が不十分、と問題になり、遺族が上級生ら4人を相手に損害賠償請求の訴訟を起こしています


2018年に三重県立高校1年の男子生徒(当時16)が自殺した問題で、男子生徒の遺族が今年8月、生徒らによるいじめが原因だったとして、県や加害者とみられる元生徒4人を相手取り、約7370万円の損害賠償を求めて津地裁に提訴したことがわかった。10月21日に第1回口頭弁論が開かれる。
訴状によると、男子生徒は上級生から身体をたたかれたり、部活のLINEグループで人格を否定するような言葉を投稿されたりしたという。また、遺族側は男子生徒から相談を持ちかけられた教諭が、積極的な対応をしなかったと指摘。教諭の注意義務違反と男子生徒の自殺には因果関係があると主張している。
県教育委員会の第三者委員会は、昨年3月の調査報告書で、LINEでのやりとりなど6件について、自殺と因果関係が認められるいじめと認定した。一方、遺族は加害者とされる生徒への聞き取り調査をしていないことなどを不服として再調査を要望。県は別の第三者委員会を設置し、再調査を進めていた。
木平芳定・県教育長は24日の定例会見で、「将来ある高校生が自ら命を絶った。ご遺族に心からお悔やみを申し上げたい」と述べた。その上で、男子生徒が所属していた部活動の顧問の教諭について「そこまで注意義務違反があったのか、因果関係を検討した上で口頭弁論に臨みたい」とし、県教委として裁判で争う考えを示した。
(朝日新聞の記事から引用)


自殺した生徒は上級生によって自転車を壊されるなど被害を受けています。これは器物損壊であり、刑事事件になり得るわけです
が、相談を受けた教諭は何ら具体的な対応もせず、うやむやにした結果、いじめは継続し自殺に追い込まれた事案です。しかも、上記の記事にあるように第三者委員会はいじめに関与した上級生から事情聴取をしないまま、報告書をまとめ提出しています。聞き取り調査ができなかったのか、しなかったのか、聞き取りに応じなかったのか、記事からは判断できないものの、手抜きとしか言いようがありません
いじめた側を抜きにした調査結果報告書を信用しろ、と言っても無理があります。遺族が怒るのも当然です
いじめた側の上級生は、民事訴訟で責任を問われるとは思ってもいなかったのでしょう。これまで遺族側に謝罪する…といった行動はしていなかったはずです
民事訴訟に応訴しなければ、請求側の言い分通りに判決が下されるわけで、上級生らは弁護士を雇って応訴せざるを得ない状況です
しかし、請求金額はともかく、いじめた側に責任があると認める判決が下される可能性が大であり、4人それぞれが数百万円もの支払うよう命じられるのは確実と思われます

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