セカイ系アニメ 戦闘少女とダメ男(2)

前回に続いて京都大学大学院人間・環境研究科の高橋幸准教授の「ジェンダーから見るセカイ系:戦闘少女の登場と少年の受動性」と題する論考を読みつつ、思うところを述べます。自分自身よく咀嚼できていないため、結論めいたものはなく、覚書程度の内容です。よろしければ一読願います。前回と同様、論考からの引用は黒字で、自分のコメントは赤字で表示しています


ジェンダーから見るセカイ系:戦闘少女の登場と少年の受動性
3.セカイ系作品をめぐる「男性性」論1:「男性性」批判による「男性性」強化
1960年代生まれで1980年代に「美少女オタク」となったオタク第一世代は、1970年代に存在感を持って登場してきたフェミニズムの衝撃を無視することができなかった最初の世代であり、それゆえ自分たちなりにフェミニズムを消化し吸収した「男性のフェミニズム受容第一世代」でもあった(第1章で詳しく論じる)。年長世代の家父長制的な「オヤジくさい」男性性を拒絶して、女性との人格的で対等な恋愛関係を志向し(80年代、少年誌におけるラブコメジャンルの成立)、少女マンガを読み、消費社会を軽やかに生きる新しい主体としての少女文化と少女的主体を称揚した。この世代以降、男性もまた男性性的暴力や権力に対して倫理的な観点から敏感に反応し、批判的な議論を展開してきた。
(中略:紙面の都合で大きく飛ばします)
東の男性性批判は、美少女ゲームが生み出す二つの視点の乖離が、表面上の男性性への反省を繰り込みながら、より深いレベルでの男性的暴力の強化をもたらす危険性をもっている、というものである。「美少女ゲームは、プレイヤーが視点キャラクターと同一化している(物語世界内にいる)ときには反家父長制的に機能し、プレイヤーがプレイヤー視点にとどまっている(物語世界外)にいるときには超家父長制的に機能するような、そういう二面性あるいは二相性を備えているわけだ」(東 2007a: 314-315)。私は、東の言う「超家父長制的」という語の意味がうまく理解できないが――家父長制的暴力を「超えた」家父長制的暴力の意味だと考えられるが、それがどのようなものなのかを具体的に想像することができない。おそらく、個々の物語から超越した全ルートを俯瞰できるメタ視点と、「呼応」させる形で「超」家父長制と言っているのだろうと推測している――、前後の文脈を読み解くと、次のような意味だと理解できる。

東浩紀の言う「全ルートを超えた『超家父長制的』存在」の解釈として、自分がここで思い浮かべるのが碇ゲンドウです
碇ゲンドウは「エヴァ」の物語の中でゼーレのシナリオを知る数少ない人物であり、メタ視点から俯瞰しうる立場です。同時に碇シンジに対しては暴力的な父親を演じ、碇シンジが絶対に受け入れたくない父親像としてあり続けます(同時に碇シンジは父親から承認されたいという欲求を隠し切れないのですが)
いわゆるセカイ系アニメでは父親や母親が不在という設定が巧みに盛り込まれており、お約束になっています。戦争により亡くなったとか、設定に織り込んで親の不在を既成事実化し、少年少女だけしか登場しない物語が展開する…というパターンです
なので、強烈なまでに「超家父長的」存在である碇ゲンドウの存在する「エヴァ」はむしろ例外的な作品なのかもしれません
強烈と表現したのは碇ゲンドウが碇シンジの父親というだけでなく、ネルフという超法規的な暴力装置のトップ(父親)だからです
ただし、「エヴァ」の物語を楽しむ視聴者の中で、碇親子の関係に思いをはせ、両者の若いによるハッピーエンドを望む人は少数派ではないかと想像します。あくまでも「エヴァ」は碇シンジの成長と自立(そこへ至るまでの迷いと挫折を繰り返す)物語だと受け止める人が大半なのでは?

ここで注目したいのは、表面上の家父長制的男性性への反省が新たなマチズモ的男性性を強化するという構造についての東の指摘である。これは、美少女ゲームというメディアの特性によって発生するものとして論じられていたが、従来の男性性への反省ともみえる「弱い」男性像表象がもつ罠(トラップ)のありかを指し示すものというふうに敷衍して解釈することができる。これは本書にとって示唆的な知見といえる。
「男の子は、将来妻子を守れるような強さとたくましさを備えなければならず、泣き言を言ったり泣いたりうじうじ女々しい態度をとってはいけない」という男性規範を解除した「弱い男性」表象は、一方で、新たな男性のあり方の真摯で誠実な模索となりうる。

家父長的男性を物語からできるだけ排除しようとする動機は、精神分析の側からするとエディプスコンプレックスによって説明されます
ぶっちゃけると思春期の少年・少女にとって父親(時には母親)とは乗り越えるべき存在であり、父親との関係は無視できません。物語を紡ごうとするとき、父親(時には母親)の存在が呪縛となり、足を引っ張るのです。ボーイ・ミーツ・ガールの甘い物語を作ろうというのに、いちいち父親や母親が顔を出していたのでは、話が進みません
ゆえに作家や漫画家は上述したように、巧みに物語の設定でもって、父親不在、母親不在の状況を作りだします。古典で例を挙げるならジュール・ベルヌの「十五少年漂流記」のように
「エヴァ」ではより巧妙に不在の母親が物語の核心に織り込まれていたり、と工夫がみられます
そして不在の父親とは真逆の、「超家父長的」存在である碇ゲンドウもまた、物語の核心を担っており、庵野秀明の構想には驚かされるばかりです
この「超家父長的」存在である碇ゲンドウがいるからこそ、碇シンジの「弱い男性」が際立っているのでしょう
ダメ男のキャラが立つには葛城ミサトのようにできる女も必要ですが、碇ゲンドウのような存在も欠かせないと気づかせてくれます
セカイ系の漫画、アニメは数多くあれど、こうした巧みな人物配置によって、物語を多重構想的に仕立てているものは決して多くはなく、「エヴァ」は特異な作品といえます
今日はここまでにします

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