「海辺のカフカ」を巡る冒険 性と暴力の神話として

今回は遠藤伸治広島県立大学教授の「村上春樹『海辺のカフカ』論ー性と暴力をめぐる現代の神話」を手がかりに、作品を読み解く冒険へ踏み出します
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村上春樹『海辺のカフカ』論 : 性と暴力をめぐる現代の神話

さて、遠藤論文では13ページ下段から、小森陽一による村上春樹批判(「村上春樹論ー『海辺のカフカ』を精読する」)に触れているので、少しばかり引用します
小森陽一の手による「村上春樹論」(平凡社新書)については、当ブログでもかなり前に言及しました

村上春樹論
http://05448081.at.webry.info/200903/article_5.html<
基本的に小森陽一が「海辺のカフカ」を読めていないとの所感は変わりありません。おそらく小森陽一は「海辺のカフカ」のページをめくりながら、別の物語を読みふけっていたのでしょう。それは小森陽一の中にある彼だけの物語であり、彼以外の誰も読むことはできない物語です
結果として小森陽一による村上春樹論は、村上春樹以外の誰かについて語っている評論です
それを踏まえて遠藤論文から小森陽一に言及した部分を引用します


阪神淡路大震災を体験し、「地下鉄サリン事件」の被害者及びその家族の「記憶の証言」を徹底取材し、『アンダーグラウンド』という作品に結実させ、「『現実』や『歴史的状況』にかかわらないかに見えた一人の作家が、時代の危機と正面から向かい合おうとしているのではないかという期待」を抱かせたにもかかわらず、この期待を完全に裏切り、既成のアクチュアルな社会参加の作家に変化しなかった村上春樹に対する失望感と苛立ちから、『海辺のカフカ』を「カフカ少年の『父を殺し、母と姉と交わる』ことが容認され、〈いたしかたないこと〉とされてしまっている」と解釈し、「人間社会が、全体として根源的なタブーを犯してしまった、という罪障感」が、「『九・一一』と、それ以降の『テロとの戦争』に対して、世界的に発生し」、それを〈癒す〉ための「免罪符」として『海辺のカフカ』が消費されているという批判を展開する。
また、小森陽一は、読者と村上春樹とのメールのやりとりのほとんどが、それまで形成されていた〈救い〉と〈救済〉の方向でこの小説を読み、〈癒し〉を感じたと告白するものが多かったこと」に対して、「ある特定の読みの方向で、読者を囲い込みと排除によって選別することになるのではないか」という「強い危機感を抱いた」ことも、『村上春樹論』の執筆動機であったとも述べているが、ここまで見てきたように、『海辺のカフカ』において、〈物語〉や〈音楽〉や〈映画〉による自己回復が暴力に対抗するものとされているとするならば、その自己回復をもたらす〈癒し〉の可能性を最初から排除して『海辺のカフカ』を読み、暴力に対抗するものが読み取れないのは当然だといえるだろう。つまり、カフカ少年の暴力が〈いたしかたのないこと〉として容認されているという解釈は、『海辺のカフカ』という小説自体によるのではなく、小森陽一の読みの前提と方法によると思われる。


「九・一一」以降も我々の日常に何ら変わりはなく、意識高い系の小森陽一や筑紫哲也などが「九・一一」以降世界は変わってしまった、などといわくありげに発言するのを、自分はバカバカしいと冷ややかに眺めてきました。現在でもその認識は揺るぎません
地下鉄サリン事件があろうと、阪神淡路大震災があろうと、です
もちろん、直接被害を受けた方々の中には、生活が激変したケースも多いとは思います。それでも、多くの日本人は昭和の延長として平成の暮らしを営んでいたのであり、天地がひっくり返ったりはしません
村上春樹が何を感じたのかはともかく、小森陽一が自身の鋭敏な感覚で時代の変化をとらえたがごとく、村上春樹が小森陽一に同調し、同じ世界観に立って新作を書いたりはしないのです(当たり前すぎて書くのが恥ずかしくなります)
しかし、小森陽一にはそれが許せなかった、のでしょうか?
小森陽一の「村上春樹論」を読み、自分は「海辺のカフカ」をあっけらかんとするほど健全な小説である、と書きました
「父親殺し」という設定を小森陽一は許せなかったようですが、自分には思春期のカフカ少年の行動は健全でまっとうなものと映りましたし、不道徳なものではありません。書き手である村上春樹自身、極めて健康で健全なメンタルをしているのでしょう
むしろ、小森陽一の方が屈折し、病んでいるといえるのかもしれません
それはともかく、「時代の危機」に立ち向かう姿勢として、遠藤論文は以下のように結論付けています


もはや詳しく述べる余裕はないが、村上春樹をめぐる現在の問題は、次のような点に設定されなければならないと思われる。近代の〈大きな物語〉が崩壊し、近代国家権力とそれに対抗する社会変革の力という、二つをそれぞれに支えていた理念や理想が現実生活の中で説得力を失っても、暴力は世界から減るどころか、理不尽な暴力として剥き出しになった感がある。空疎で形骸化した理念や理想、それを掲げた力の行使は、現実生活の生きにくさに対する不満のはけ口として機能し、倒錯的に、そのはけ口を見つけるためにこそ、イデオロギーや文明の衝突といった〈大きな物語〉を再生産しようとするように見える。
そのような〈時代の危機〉の中で、個人主義と〈物語〉の力によって暴力に対抗できるのか、特に〈歴史〉や〈戦争〉を持ち出す前に、まず現在の自分に対する〈責任〉において暴力を否定するだけの強固な個人主義を日本人が持つことができるのか、もしできないとすれば、村上春樹という作家は日本の現実から離れてしまうのだろうか、という点にである。


「大きな物語」と聞くと、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を思い起こします。司馬遼太郎は幕末から明治維新、日清戦争、日露戦争を題材に、近代日本を作り上げた「偉大なる父親」の物語を書いてきました。司馬遼太郎の意図はどうあれ、彼が「偉大なる父親」の物語を書き続けたからこそ、国民的な作家と称賛されたわけです
それに対し、村上春樹は1人のタフな少年の物語を提示します。カフカ少年の個人的な体験が「偉大なる父親」の物語に拮抗しうるかどうか、試されていると自分は感じます
言い換えるなら、日本の読者が司馬遼太郎の「偉大なる父親」の物語を選ぶのか、村上春樹によるカフカ少年の個人的な体験談を選ぶのかが試されている、と表現してもよいのでしょう

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