涼宮ハルヒとボヴァリー夫人の退屈

引き続き静岡大学情報学部の紀要に掲載された「誌上シンポジウム『涼宮ハルヒの憂鬱』」収録の論文を取り上げます
シンポジウムというのは壇上に数名のパネラーが座り、司会者の進行の許で特定の「お題」について意見を交わし、何がしかの問題意識を共有を目指したりするもので、そこで新たな発見があったり、結論を見出すことはありません。シンポジウムの前に意見交換をし、進行のおおまなか調整をして時間内に終わるよう示し合わせるものです
これを研究紀要という冊子の誌上で行おうという企画だったのでしょうが、情報学部の教授や准教授、講師が「お題」に応じた論文を提出するだけで、相互に意見交換などは行わえなかったのかもしれません(単なる憶測です。調べていないので)
それはそれとして、個々の論文から読み取れる見解にはそれなりに面白いものがあり、読んで考える材料にさせてもらっています

『涼宮ハルヒの憂鬱』における日常の憂鬱

田中柊子静岡大学情報学部講師(現在は東洋大学准教授)の論文を読むと、ライトノベルごときに言及するため論文を書く不満、というものがひしひしと感じられます。フランス文学を専門とする彼女にとって、ライトノベルなど学術研究の対象外なのでしょう
だからといってお茶を濁すような真似はせず、女性ならではの視点(現代ではこうした表現も男女差別にあたる、と叱られるのかもしれません)で涼宮ハルヒを語っているところが興味深く感じられます
ブログ記事のタイトルにも掲げたように、フローベールの小説「ボヴァリー夫人」を引き合いに「涼宮ハルヒの憂鬱」を論じています

これは、文学作品と括られているものからは生まれ得ない現象である。文学作品の場合、その世界を蘇らせ、そこに多様な色彩を加え、奥行きを広げていくのは、批評の役割である。ライトノベルをベースにした二次創作やメディアミックスは、文学作品に対する批評にあたる機能を果たしているように思われる。そのようなサブカルチャー的なものをあえてアカデミックに分析する態度には、親しみやすさの演出と知識のひけらかしの入り混じった厚かましさがしばしば見受けられるし、それはサブカルチャーに独特のコードの共有にもとづく輪に入ろうとして、結果的にその魅力を奪うもののように思われる。ここでは、実験的に、『涼宮ハルヒの憂鬱』をライトノベルと意識せずに、したがってその派生作品には言及せずに、一つの小説作品として読み、中心的なテーマと思われる「日常の憂鬱」について若干の考察を行いたい。

ライトノベルやアニメーション作品をあえてアカデミックに分析する行為が作品の魅力を奪ったり、損ねたりするかどうかは書き手の技量とセンスの問題でしょう
当ブログで取り上げた、涼宮ハルヒの言動を独我論で解釈するという論文など、読んでいて「はっとさせられる発見」があったりしますので、十分に意義のある行為だと自分は思っています

憂鬱を退屈の形で表現した作家の例として、フロベールが挙げられるが、『ボヴァリー夫人』のエマは、ハルヒのように非日常を夢見る。エマの場合、それはウォルター・スコット趣味の世界なのだが、そのような人生の可能性を夢見るがゆえに自分の現実の平凡さに耐えることができない。かといって自分で行動するという選択肢はなく、不貞を働く度に、それが自分を飽き飽きした現実から抜け出す契機になることを期待する。結局、夢見ることしか知らないエマは、不倫と借金という現実的で、凡庸な問題を抱え、自殺してしまう。
ハルヒの場合、非日常は、彼女の「イライラ」が具現化した巨人が異空間で暴れるという形で現れるのだが、エマと決定的に異なるのは、ハルヒの「宇宙人や未来人や超能力者が存在して欲しいという希望」と「そんなものがいるわけがないという常識論」のせめぎあい、さらに自分が特別な存在ではないという幻滅の入り混じる憂鬱が、キョンのキスによって、束の間であっても、解消する点だ。
(中略)
ハルヒとキョンが、ハルヒの「イライラ」が作りだした新しい次元に閉じ込められるという出来事の起きる前に、キョンと朝比奈みくるがじゃれあっているのをハルヒが目撃して不機嫌になっているという細部、あるいはこの出来事の翌朝、ハルヒがポニーテールにはまだ短い髪を一つにくくって、ポニーテール萌えだというキョンのリクエストに応えているという細部を忘れてはならない。
このキョンのハルヒへのキスによる世界の救済は「ベタな展開」として位置付けられているようだが、ここに作者のハルヒというキャラクターを愛でる仕草が見て取れないこともない。

ウォルター・スコット趣味とは、勇敢な騎士が囚われの姫を救い出す冒険譚めいた夢想に浸っていることを指し、そのような冒険ができないがゆえに不倫にスリルを求めるエマを、日常に飽き飽きしている代表例として提示したのでしょう
ただ、その不倫も一時の気晴らしにはなっても、身を焦がすような大恋愛にはならないのであり、退屈な日常を一変させるような魔力はありません
ハルヒの場合はどうなのでしょうか?
筆者の認識では、朝比奈みくるとキョンが仲良くじゃれあっている姿を目の当たりにしたことが不機嫌の原因、としていますが、もちろんそれだけではありません。ハルヒはキョンを恋愛の対象と認めたわけではなく、独我論的思考に立った感覚を共有できる同志とも言うべきキョンが、女の子にデレデレしているのに立腹し、失望し、苛ついたと考えられます
閉鎖空間の北高でのキョンによる告白とキスがハルヒの苛立ちを鎮め、世界を救済したという解釈には前回述べたように賛成できません
あれはハルヒの不意をついたのであり、ハルヒは咄嗟のことに混乱したがゆえ、閉鎖空間を維持できなくなり日常への回帰に至った、というのが自分の解釈です
ならば、翌日朝のポニーテール姿はなぜか、という疑問が提起されます
自分は男なので、ハルヒがわざわざポニーテールにして登校した真意は分からないのであり、ただ推測するだけです(作者、谷川流もたしか男性でした)
朝、目覚めたハルヒは悪夢を拭い去れず、不快な気分であったと推測します。同時に、キョンの告白は耳にしっかり残っており、キスの感触もまた鮮明に残っていたのでしょう。そのまま、自身の体験を整理できずに登校したと考えられます。ハルヒならポニーテールにした理由を決して語らず、「ただの気分で」と誤魔化すだけで、さらに問い糾そうとすれば蹴り飛ばしてくるのでは?
謎は謎のままでよい場合もあります。男子にとって女子の心の中というのは永遠に謎でしょう

作者と想定された読者の間には、「もはやフィクション作品による現実逃避なんて通用しない」というような共通の見解がある。フィクションを愛でながらも、決してのめりこまず、日常に留まることを好む、あるいは日常を抜け出す気力も行動力も奪われた消極的状態に、現代の穏やかで慢性的な日常の憂鬱が見える。もしかすると、ハルヒの本当の憂鬱は、自らの日常や平凡さに対する「イライラ」が原因なのではなく、日常に真剣に向かい合うことなく、人生の諸々の出来事をパターンやネタとして消費するというきわめてライトノベル的な生き方に対する「イライラ」のせいなのかもしれない。キスで救われる世界が「ベタな展開」として茶化される限り、ライトノベルは安泰であり、ハルヒの憂鬱は続くだろう。

同様に壁ドンとキスで解決する少女漫画も安泰であろう、と言いたくなります(皮肉です)
ただ、ライトノベル的生き方との枠のはめ方には、異論があります
ライトノベルを読む若者がすべて現実の穏やかで慢性的な日常に甘んじているのではありませんし、日常に真剣に向かい合うこともなく流されているわけでもありません
ライトノベルが現代を生きる若者の消費の道具にすぎないとしても、何をもってライトノベル的生き方と定義できるのか?
ここら辺りの記述は、意に反してライトノベルを扱った論文を書く羽目になった筆者の不満が、ライトノベル読者層に向け吐露されているように感じます
現代の若者にファウスト博士のごとき生き方をせよ、などと言うならば、その方が無茶振りでしょう
ボヴァリー夫人の時代、勇敢な騎士と美姫の冒険譚はさしずめ彼女たちのライトノベルだったはずであり、その彼女たちはライトノベルより遥かに退廃的な生き方をしていたともいえます

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