「千と千尋の神隠し」考察 千尋という存在(Ⅰ)

宮崎駿の劇場版アニメーション「千と千尋の神隠し」は、つい先日まで日本の映画興行成績で第一位の座を占めていました。それだけ評判もよく多くの観客を映画館へと足を運ばせた作品です
しかし、自分としてはどうにもストーリーの破綻が気になり、素直に誉められない作品です
だからといって取り上げないわけにはいかないのであり、真正面から考察を試みます。長くなりますので、2回に分けて書きます
今回は有田和臣仏教大学教授の論文「『千と千尋の神隠し』論ー『千の顔を持つ英雄』とニュータウンの幻影ーから一部、引用させてもらいます

「千と千尋の神隠し」論ー「千の顔を持つ英雄」とニュータウンの幻影ー

有田論文は、『千と千尋の神隠し』は、十歳の少女千尋が引っ越し先の町の森の中で、異界に迷い込みまた生還する、異界往還の物語である。しかしその異界は、戦後日本の経てきた歴史的社会状況を濃厚に映し込んでおり、とりわけ日本の高度成長期からポスト・バブル期にかけての生活空間に根差している。この物語は千尋が過去の歴史をひとわたり旅する、神話の英雄譚の構成をとっており、その旅程に即して千尋が過去を象徴的に経験していく物語だと言える。この旅における千尋の経験の内実を検討する、と研究の主旨が示されています

(論文2ページ)
つまり千尋の冒険の舞台となったこの異界、夢幻世界は、現代日本のバブル期という実在する現実世界のうえに立脚しており、バブル崩壊後に廃墟化したテーマパークの施設跡という、いわば現実世界の陰に部分の中に息づいている。それらは残骸に見えながらも実は、今も神々を湯屋にいざなうエントランスの役割を異界固有の法則の中で果たしており、その事実を千尋のみは本能的に感じ取って、畏怖を覚える(両親はいひろの静止を無視してうかうかと、野原を横切る河の残骸らしきものを渡り、そのために親子とも異界にすっかり足を踏み入れてしまうことになるのだが)。

「十歳の少女の生き方がどのようなものか、考えてこの作品を作った」と、どこかで宮崎駿が述べていました。作者自身の発言というのは重みがあるわけですが、だからといって作品世界について何やら真実を明かしていると思い込むのは間違いです。まったく関係のない話をしている場合もあるからです
ただし、この作品の場合、十歳の女の子の価値基準をベースにしているのは確かでしょう。千尋は臆病に見えても、現実世界と異世界との境を察知する感覚という、こどもならではの感性を持ち合わせていることが示されています。父親や母親はその感性をとっくに失っていることも、2人の会話からうかがえます

(論文3ページ)
異界での冒険という、いわば表のストーリーの背後にわれわれが透かして見ることができるのは、戦後日本がたどってきた復興と経済成長、そして凋落の歴史を千尋が象徴的に追体験するさまである。千尋がこの異界に迷い込む必然性はそこにあり、異界での体験を通して千尋が得たものは、現代に生きるわれわれ日本人が進むべき方向性を示す指針となり得るものなのかもしれない。

まあ、そうした見方もあるのでしょうが、自分は宮崎駿を一介のアニメ屋であると見ており(敬意を込めて)、預言者や警世家のように見なすのは誤りと考えます。なので、この作品も現代日本への批判とか、今後の日本が進むべき指針などと受け止めるのではなく、千尋という少女がどう生きるのか、生きる術を見出し身につける物語、と解釈します
有田論文はこの先、バブル期のニュータウン建設やテーマパーク乱立について延べているものの、自分の考察とは関係ないので割愛します
ただ、バブル経済の雰囲気としては、神々への信仰より土地信仰がはびこり、マンションとゴルフ場と薄っぺらなリゾート施設建設に狂奔した時代という印象があります。それこそ原画を何千枚も手書きするアニメを作るより、土地を転がして儲ける方が賢いとされた時代でしょう
さて、有田論文では多摩ニュータウン開発の過程で、祠や石仏、野仏が打ち捨てられた件を取り上げ、そのような居場所を失った神仏が異界へと渡り、油屋(湯屋)集うようになったのではないか…との仮説を提示しています
その辺りは作者に問わなければ分からないものの、マンション開発や道路の新設に伴って河川が暗渠に変わったり、埋め立てられる話は珍しくなかったのであり、当然、宮崎駿も承知していたはずです

(論文14ページ)
ところで、千尋の働く湯屋「油屋」に、「オクサレさま」と呼ばれるクサレ神がやってくる。千尋の働きでクサレ神は、おそらく経済成長期に川へ捨てられたであろうごみ・瓦礫や、ヘドロ等、体内に溜め込んでいた異物をすべて排出し、竜のような姿にもどり颯爽と飛び去る。(中略)
なぜ仕事もまだろくにできない新米に千尋が、オクサレさまを回復させることができたのか。(中略)それは、千尋のみが人間だったからである。湯屋に癒しを求めてやってきた神々は、みな人間の開発事業によって傷つけられ、ここに来たものと思われる。その神々をほんとうの意味で癒やすことができるのは、人間社会に済、人間社会の中で、例えば捨てられた祠を集めて祀ることができる者に限られる。

この指摘は自分に見えていなかった部分を気づかせてくれたものであり、はっとします。湯屋で働く者たちは人間の姿かたちをしてはいますが、人間ではなく、千尋だけが唯一、人間です
神仏は信仰を寄せる人間があってこそ神仏たりえるわけで、信仰を寄せる人間がいなければ存在意義を失いかねません
そして傷ついた神を癒せるのもまた人間だけ、という指摘は含蓄に富んだ指摘です

ところで、「この作品は千尋の成長の物語ではない」と宮崎駿は述べています
もちろん、単純に千尋の成長の物語」と受け止める見方もあるわけで、多くの観客はそう解釈したのではないでしょうか?
「これが成長の物語でないなら、いったい何か」との疑問も湧きます
当然ながらバブル経済への批判とか、信仰を失った日本人への警鐘の物語でもないはずです
有田論文から一旦離れ、「千と千尋の神隠し」の企画書から引用します

(「千と千尋の神隠し」企画書より)
正邪の対決が主題ではなく、善人も悪人もみな混じり合って存在する世の中というべき中へ投げ込まれ、修行し、友愛と献身を学び、知恵を発揮して生還する少女のものがたりになるはずだ。(中略)
今日、あいまいになってしまった世の中というもの、あいまいなくせに、侵食し喰い尽くそうとする世の中を、ファンタジーの形を借りて、くっきりと描き出すことが、この映画の主要な課題である。
かこわれ、守られ、遠ざけられて、生きることがうすぼんやりにしか感じられない日常の中で、子供達はひよわな自我を肥大化させるしかない。千尋のヒョロヒョロした手足や、簡単にはおもしろがりませんよゥというぶちゃむくれの表情はその象徴なのだ。

よほどバブル経済時期とその崩壊後の「人心の荒廃」が腹立たしかったのか、そうした世相をアニメーションで浮かび上がらせてやろうとの魂胆が見えます。ただし、宮崎駿の企図がそうであるにしても、やはり十歳の女の子がぶちゃむくれの表情を浮かべながらも、幾多の苦難を乗り越えて生きる姿は「成長」と呼べるのではないでしょうか?
偏屈なトトロのおじさんは決してそうとは認めたくないとしても
長くなりましたのでここで区切りとし、続きはまた書きます

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