「千と千尋の神隠し」 何を描きたかったのか?

当ブログでは宮崎駿や村上春樹について断続的に取り上げています。個人的な関心ゆえですが、彼らの作品を対象とした研究論文を読んで気がつくのは、作者が自作について語っている発言内容をあまりに過大視したり、絶対視する態度です。自身の説を裏付け補強するために作者の発言を切り取って貼り付ける、というやり方がしばしば見られるのです(もちろん、自分もその手法を使っているわけで、自戒しなければなりません)
確かに作者自身が作品について語った内容は重いのですが、だからといってその発言内容を絶対視するのは誤りでしょう。作家の中には自作について語る時は「嘘をつくこともある」と、明言する人物(村上春樹)もいます。営業・宣伝のためだったり、創作上の秘密を晒したくないからとか、さまざまな理由があって偽装したり、話を作ったりするのだと思われます
なので自分は作者自身の発言は常々、話半分に聞くよう止め、絶対視しないよう心がけているつもりです
前置きはここまでにして、「千と千尋の神隠し」で宮崎駿は何を描きたかったのか、を考えるのが目的です
前回は宮崎駿自身が「千尋の成長譚ではない」と公言しているのを取り上げ、考察を試みました。千尋のみならず、次代を担うこどもや若者への思いを託した物語であろう、というのが自分の結論でした。今回はそこをさらに掘り下げます
埼玉学園大学の研究紀要に掲載された川勝麻里氏の論文から一部を引用します。川勝氏は活発に論文を発表している方ですが、大学の講師なのかどうか、ポジションがはっきりしないのでそこは不明としておきます

『千と千尋の神隠し』における神々の零落─ 鏡像・風景の転倒・養老天命反転地をキーワードとして ─

(論文2ページ)
『千と千尋の神隠し』では、「生きる力」2)のない十歳の千尋が、不思議な町に迷い込み、労働するなかで「生きる力」を身につけていく。千尋はごく普通の女の子よりも劣ってさえいる存在として登場し、宮崎駿監督作のアニメーションの他の主人公たちが美人に描かれているのに対して、初めて不美人に描かれた3)。そうした千尋が成長し、人間の世界に戻っていくというのが、この物語の構造である。

論文の末尾の注釈に「2)DVDのパッケージには『働かせてくださいっ。/眠っていた千尋の〝生きる力〟がしだいに呼び醒まされてゆく。』と書かれている」とあり、千尋を「生きる力のない女の子」と設定されている、と言いたいのでしょう
ただし、「生きる力」とありますが、この千尋の迷い込んだ異界においては働くしか生きる道はないのであり、働かなくても誰かが養ってくれたりはしません。なので、千尋が千になって働くというのは当たり前の選択、でしょう
千尋が湯屋で働かず、援助交際でもやりながら異界で生き汚く生きるという選択肢もあるのでしょうが、それはまた別の物語になります

(論文3ページ)
千尋の両親は、テーマパークを好き放題に作ってそれを放置し、河川を汚し、食物を粗末にしてきた人間の大人たちの代表であるかのように描かれている。その大人たちの罪を、十歳の子供である千尋が償わなければならない。子供が大人を救う。宮崎のアニメーションには、いつもそうした逆転した構図があった。労働する中で、いつも、ふてくされて、だらしなかった千尋は、「生きる力」を取り戻していく。子供でも世界を動かすことが出来るのである。そのためには、子供は労働することによって成長し、その結果、大人や世界を救うというのでなければならない。千尋は不思議な町の湯屋で両親のために働くことになる。

千尋の両親が戦後を生き、バブル経済を生きた大人たちの代表、という形で表現されているのはそのとおりですが、作者である宮崎駿もその1人です。社会のそんな風潮に抗って生きてきたのか、その流れに乗ってアニメーションという娯楽作品で食べてきたのかはともかく、大人の責任というものを宮崎自身が背負っているのは確かでしょう。その意味では自虐的な表現である、とも解釈できます

(論文3ページ)
そうした信仰が失われかけた神々のところに迷い込むのはいつも子供である。未来を担う子供こそが、神々に対する信仰や言霊の力を復活させることが出来るので、子供が大人を救う。これは、未来の日本を担う子供に対する宮崎の期待だとも言えるだろう。

古来から信仰にも流行り廃りがあり、弥勒信仰や菩薩信仰、如来信仰、妙見信仰、熊野詣に伊勢参りなど、さまざまな信心が興っては他の信仰に取って代わられる様相を繰り返してきました
神がいるから信仰が生まれるのか、信仰があってこそ神が神たり得るのかとの問題はあれど、川勝論文ではカオナシを信仰を失った神(神格を失った存在)と位置づけています。カオナシの半分消えかけた、存在感の乏しい描写が、零落した神の有り様であると。以降、妖怪は神が神格を失った存在とする柳田国男の民俗学に沿った話が論文では語られます。が、カオナシを妖怪と見るか、信仰を失った神と見るかは視聴者の受け止め方次第でしょう
論文にあるように「こどもが大人を救う」様を描くのがこの作品の主眼であり、目的であると断定するのは、まだこの段階では早い気がします
そして「期待」という言葉を安易に使ってはいけない(米澤穂信の小説「古典部」シリーズの中にある台詞です)との警句を引き継いで、自分も「期待」との表現は使わないようにします。それは諦めから出る言葉だと、「古典部」シリーズの中で指摘されています
すなわち、こどもたちへの期待=大人たちへの失意、大人では解決できないと決めつけることになるので

(論文10ページ)
◆潜在能力としての「生きる力」
千尋は湯屋で働き、成長して居場所を取り戻していくが、宮崎本人は、『千と千尋の神隠し』は成長物語ではないと述べている。「成長物語ではなく、その子たちがもともと自分のなかに持っていたものが、ある状況であふれ出て来る・・・それを映画のなかで描きたいと思った」12)とか、「最近の映画には成長神話みたいなものがあって、そのほとんどは成長すればなんでもいいという感じがする」が、「そういう成長神話的な観念を引っ繰り返そうと思った」と述べている13)。
ただし、こうした発言が出たのは、誰の中にでもある潜在能力が「あふれ出て来る」というのは、「成長」とは少し違うと宮崎が考えているからで、こうした潜在能力の発揮も、広く見れば一種の成長だろう。
宮崎が、このような潜在能力を発揮して輝く少女を初めて描いたのは、『魔女の宅急便』(一九八九年)においてである。角野栄子の原作『魔女の宅急便』では先祖から伝統として引き継がれてきた魔女の血縁が「魔法」であるとされるが、宮崎は「魔法」を少女キキが持っている潜在能力と位置づけている14)。
つまり、『千と千尋の神隠し』が単なる成長物語ではないと宮崎が言うのは、キキと同じように、千尋も「魔法」を使わないという意味だろう。「魔法」という外在的な力に頼らず、自分の中に内在する力によって成長していくという意味で、従来の成長物語とは違っているのである。

ドイツの教養小説を例に挙げるまでもなく、アニメーションもこどもの成長する姿を介して、教訓やら薫陶を授けるものと扱われます。宮崎作品もそうした解釈をされることが多く、だからこそ「ジブリ作品は親が安心してこどもに観せられる」などと評価されてきました
こうした扱いに反発はあれど、口に出したら商売にならないとプロデューサーの鈴木敏夫は、常日頃から宮崎駿に釘を刺していたのかもしれません
では、この作品が千尋の成長の物語ではないとするなら、何を描こうとしたのでしょうか?
前回と重複するわけですが、考えてみましょう
川勝論文では、「潜在能力があふれ出てくる様を描きたかった」という主張が示されています
ただ、そこには従来のアニメ的解決とは異なる方法を選択しています
この作品では、異界に魔法が存在するものの千尋は契約を交わして魔法少女になったりはしませんし、「悪魔の実」を食べて異能力者になったりはしません。千尋が眼からビームを出して悪い奴らをやっつける的な、アニメ的解決法では物語がダメダメになってしまわけで
窮地に追い詰められた主人公が秘められた力を爆発させて強大な敵を打ち倒す、という場面がアニメーション作品には頻繁に登場します。秘められた力の爆発、は視聴者にカタルシスをもたらし、「面白かった」とか「最後のシーンがすごかった」という感想に結びつきます。もちろん、アニメ屋である宮崎駿はそれが分かっているからこそ、「秘められた力の爆発」という常套手段を使いたくないのでしょう
十歳の女の子ならどうするか、を考えて物語を組み上げ、年齢相応の解決手段(銭婆のところへ印章を返しに行く)を選択する展開に持ち込んでいます。派手さはありませんが、作者なりに考えた展開であると思います

(論文12ページ)
このように見てくると、本作品は零落した神々や千尋・ハク・坊が居場所を取り戻すことによって、潜在的な「生きる力」をつかみ取っていく物語なのだということが分かってくる。そして、神々の怨念は不思議な町を、宮崎がこれまで繰り返して描いてきた風景の転倒や、「養老天命反転地」と同じように、鏡像のように反転させていることも、確認してきた。
元の世界に帰っていく千尋に、ハクは再会を約束する。名前と名前の縁語関係や「愛の力」で結ばれた二人であることを考えると、解決策こそ示されていないが、トトロがサツキやメイのおかげで少し力を取り戻したように、零落していた川の神ハクも力を取り戻すのではないだろうか。

では、ハクが自分の名前を取り戻す(神格を取り戻す)ことで再び神様になれるのかどうか、よく分かりません。ハクが神様になるには信仰を得なければならないのですから。なので、ハクが本当に居場所を得たと言えるのかどうか、自分には疑問です
千尋は名前を取り戻し、両親を取り戻し、元の世界への帰還がかなったので居場所を得たといえます(以上のように、未解決の部分が多すぎるのに、何となくハッピーエンドになっている「千と千尋の神隠し」の脚本を、自分は破綻していると解釈します)
さて、これが千尋の成長譚ではないとすれば、いったい何を表現したものか、答えを出さなければなりません
引っ込み思案で(実は怖がり)ぶちゃむくれの女の子が「成長した」と表現するのが不適当なら、変容したと表現するべきでしょうか?
この記事は書き始めて5日以上経過しており、つまりその間、答えを探しているのですが満足なものは見つかりません
世のはびこる成長神話に宮崎駿が疑問を抱き、それをひっくり返してやろうとこの作品に取り組んだのであれば、どこで成長神話がひっくり返されているのか特定すればよいのですが、残念ながらよくわからないのです。どうにも、視聴者の多くは千尋の成長譚と理解しているわけで、結果からすれば宮崎駿の意図は伝わっていないのです
長々と書いて最後は「よくわからない」と白状するのは気持ちの良いものではありませんが、現時点での自分の理解としては「わからない」が実際です
最後に。作者による自作への言及が絶対ならば、評論など不要でしょう。あるいは作者の言及を受け売りしたレビューだらけになってしまいます
精神分析の場合、クライアントがそれと自覚し言語化できる情報量というのは極めて限られたものであり、言語化できない膨大な情報が内に潜んでいます。その人を理解するためにはこの言語化されていない情報をいかに読むか、が重要になります
小説やアニメーションをそれと同一視するのは危険かもしれませんが、作者自身が言語化できない部分に光を当て、言語化するのが評論であると考えます。作者の意図や意図せざる意図を探り、解釈し、論じてこそ、作品理解の可能性を押し広げられます。作者の言及のみを金科玉条のように掲げ、他の解釈の可能性を切り捨てるのは愚かな行為でしょう
以上のうような考えに基づき、これからも解釈の可能性を探っていくつもりです

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