エヴァンゲリオン 少年は神話になったのか?

クイックジャパン掲載の記事「神話になれなかった少年たちへ|さよならエヴァンゲリオン」を取り上げます
この「神話になれなかった少年たち」が指し示すのは、四半世紀近くエヴァンゲリオンを追いかけてきた元オタク、あるいは熱烈なファンなのでしょう

神話になれなかった少年たちへ|さよならエヴァンゲリオン
(前略)
ただ、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』公開に備え2021年に改めて『:Q』を観直したとき、強烈な違和感を覚えた。
年齢を重ねるごとに作品から感じ取ることが変わっていくというのはエヴァに限らないことだけれど、社会が成熟したことによって『:Q』公開時にはさほど取り沙汰されなかったエグみがより顕著に感じられるようになった。「子供」の描写だ。
「子供」を描く前提
エヴァは思春期の心のありようを描いてきた作品だ。アイデンティティの希求、愛着形成の不全、大人への不信や見捨てられ不安など、思春期の子供の心理に起こるさまざまな事件を、世界の様相と紐づけてきた。……という話はさんざん語られてきていて、これからも語られていくだろう。だからこの記事で掘り下げることはしない。
この記事の本題はその一歩手前の話、子供を描くにあたっての「前提」の話だ。
端的に言えば、『:Q』ではシンジが、子供が子供として扱われていない。思春期の繊細な機微も葛藤も成長も、描くのであればまず子供が正しく子供扱いされているという前提がクリアされた上でだ。でないと大本が破綻した状態での作劇になる。2021年に観る『:Q』はその点で大きな凝りを感じざるを得なかった。そして、2021年に公開される続編の『シン・エヴァ』ではその点をクリアする描写がなされているのか?
『:Q』に限らず本シリーズでは、エヴァンゲリオンのパイロットとして選ばれた14歳の少年少女たちに世界の命運が託されている。子供に大人と同等以上の役割・働き・成果を期待しているわけで、大人と子供の健全な関係性ではない。ところが大人たちはどうにも”申し訳なさそうにしていない”。そして、子供たちのほうも与えられた役割にアイデンティティが依拠していく。そのくせ大人と子供の非対称性を補完する要素があるわけでもなく、アンフェアな関係性を土台にしたコミュニケーションがつづいていく。
もちろん、こういったアンフェアな構図が取られる物語はエヴァに限ったものではない。というか少年漫画誌に掲載されている作品の多くがそうだろう。うずまきナルトが市区町村(里?)の児童福祉課からケアを受けているような描写はついぞ見受けられなかったし、エルリック兄弟も公助の対象とされていたような描写はなく、彼らの養育は地域社会の共助に丸投げされていた。

この論評をブログで取り上げるにあたり、「エヴァ:Q」を有料配信サイトで見直したのですが、論評が主張しているところが自分にはすんなりと理解できませんでした
もちろんエヴァンゲリオを取り上げた論評は数多く存在しており、そのすべてが理解できたり共感できたりするはずはなく、理解できないものや違和感を覚えるものも少なくありません
ただし大事なのは、共感できる論評ばかり取り上げたところでどこへもたどり着けないのであり、理解できないものや反感を覚えるものこそ、重視する必要があるのではないか、という話です。自分の見識とは異なる異論にこそ、耳を傾ける価値があるのかもしれませんし、新しいものが見えてくる可能性があるのかもしれません
さて、引用部分です
こどもをこどもとして扱う大切さに筆者は強い思い入れを抱いています。が、純文学にしろ、漫画やアニメーションにしろ、必ずしもこどもはこどもとして尊重されていません
古くは「小公女」などの物語のように主人公の女の子や男の子が悲惨な境遇にもまれ、大人たちからひどい扱いを受ける展開が読者を惹きつけ、夢中にさせるのです。「NARUTO」も同様であり、里の大人たちから忌み嫌われる背景があってこそ、ナルトの孤独が鮮明になり、読者はナルトに感情移入できるのです(そして物語の後半で大逆転があり、少女や少年が幸福を手にするところで読者がカタルシスを味わえるようになっています)
つまり、碇シンジは物語の前半では徹底的に孤独で、不幸な少年でなければならないのです(その物語の後半で彼が幸せを手にできるかはともかく)

海外エンタメでは、“子供をちゃんと子供扱いする”ことについてのエクスキューズはずっと前から行われてきている。代表的な例としては『バットマン』におけるロビンの描かれ方がある。
バットマンからクライムファイターとして(暴力行使の)手ほどきを受けた歴代のロビンたちの中には、そのあとバットマンに反発し袂を分かった者や、ヴィランに身をやつした者などがいる。こうした描写はバットマン=ブルース・ウェインの保護者としてのあり方が少なくとも手放しで称賛されるようなものではないと示唆していると取れる。そして、ライターたちが子供に大人同様の役割を担わせること、子供になんらかの力を与える責任といったイシューに自覚的な姿勢が窺い知れる。

エンターティメント作品の中であるからこそ、碇シンジの孤独は設定として許容されます。それが目に余るほどだとは思いませんし、有害無益と決めてかかる必要もないのでは?
そもそも碇シンジが、理解力と包容力に満ち溢れた父親と、慈愛と思いやりのある母親に囲まれて生活する14歳なら、エヴァの物語は成立しません。別の物語になるでしょう。どうしようもないヘタレで甘ったれな14歳の少年である彼の物語に、四半世紀もの間ファンが熱中するはずはないのです
シンジもアスカもレイも、不幸だからこそ(あるいは不幸に映るからこそ)、人はエヴァの物語に惹かれるわけで
余談ながら「NARUTO」は途中から「仲間」とか「つながり」を重視するようになり、ナルトが敵を前に長々と説教するシーンが嫌でテレビアニメの視聴を止めてしまいました。冒険活劇のままなら楽しめたものを

大人として子供と向き合う責任
エヴァは思春期の代名詞、“何かが起こる年齢”として象徴的に描かれることの多い「14歳」というものの特別さを克明に印象づけた作品だ。だからこそ、今の時代に子供を描くのならそれなりのエクスキューズがあってしかるべきといえる。子供は子供だと言いきってほしい。でないと、この作品によって子供時代への妄執に駆り立てられた大人(と呼べる年齢の人)たちがいつまでも大人になりきれない。呪いは解かなくてはならない。何度確認してもゾッとするのだけれど、14歳のときにテレビシリーズを観ていた人は今年40歳なのだ。
我々は大人になった。
(中略)
そういうふうに、大人たちはそれぞれに年齢を重ねながら自分の子供時代を顧みて、大人として子供と向き合う責任を自覚している。
対してエヴァシリーズで描かれた大人たちはどこか成熟しきれず、子供の部分を抱えたままといった印象を受けるキャラクターが多い。最たるものが碇ゲンドウだろう。
碇ゲンドウは、子供の部分を残したまま年齢を重ね、過去に囚われた、大人になりきれない大人だ。それゆえ自分の子供であるシンジとのコミュニケーションは破綻している。大人になりきれていない大人と子供扱いされない子供との間にフェアな関係性が築かれるべくもない。

14歳という年齢がある意味、節目であるのは分かりますが、特段14歳にこだわる必要はありません。長い人生の中で14歳でいられるのは1年だけです(物語では異様に長く引き伸ばされていますが)
「エヴァンゲリオンがこれで最終回」という設定であっても、観る側がその設定に引きずられる必要はないのであり、今後もエヴァンゲリオンを語り続ける選択はもちろんありますし、エヴァンゲリオンに代わる作品、あるいはエヴァンゲリオンを凌駕する作品を見出して夢中になるという選択もあるのでしょう
なので、「エヴァと一緒に卒業しましょう」との流れには賛同できません
正直、「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」においてゲンドウとシンジの対話が描かれているのには驚きました。しかし、本当にこの2人の間に和解が成立したのか、相互理解が叶ったのかは疑問です
ギリシア悲劇「オイディプス」で、オイディプスは父ライオスと和解はできませんでした。それはオイディプスがライオスを父親であるとは知らないまま殺してしまったからであり、父と息子は永遠に分かりあえない、2人の間に和解などありえないと示唆する筋書きです
なのでゲンドウの自己開示がシンジに響いたのか、受け止められたのかも疑問です。今際の際に親子が真摯に語り合い、心を通わせる場面は小説でもドラマでも数多く描かれ、観るものにカタルシスを与えるのですが、これまで展開してきたエヴァの物語でそれが可能とは考えられません
最後まで分かりあえない親子、という形の方が世相を反映しているのではないか、という気がします

片手ずつ前に出して卒業証書を受け取って一礼、という儀式をしなくても卒業はできる。ただ、観客たちがこの終わりに参加できる仕組みを作り、一緒に儀式の過程を経て自ら卒業していくことこそ最良の終わりだと、庵野秀明は考えたのではないだろうか。
ラストシーンで声変わりを迎えた碇シンジ同様、長年この物語に囚われてきた視聴者たちもまた、大人として自分の足で歩いていく時を迎えた。
ただ、大人でいることは楽しい。神話になれなかったかつての少年たちの日々の暮らしの実話は、存外悪くないスペクタクルなはずだ。

批判ばかり書いてしまいました
今回の「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を卒業の儀式と受け止める方もいれば、こんな終わり方は納得できないと思う方もいるのでしょう
ならば先述したように、これからもエヴァンゲリオンの未完の物語をああでもない、こうでもないと語り続ける選択もあります
神話になれずとも、神話の語り部にはなれるのかもしれません

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